亮(りょう)は帝(みかど)が生前(せいぜん)に残(のこ)した詔(みことのり)を受(う)け、喪(も)に服(ふく)して成都(せいと)に帰(かえ)りました。
禅(ぜん)が帝(みかど)の位(くらい)に即(つ)き、亮(りょう)を武郷候(ぶきょうこう)という役職(やくしょく)に就(つ)け、政治(せいじ)や事務(じむ)の全(すべ)てを任(まか)せました。
亮(りょう)は官職(かんしょく)を整理(せいり)し、法律(ほうりつ)を制定(せいてい)し、教育(きょういく)などについて国中(くにじゅう)に発信(はっしん)して臣下(しんか)から色々(いろいろ)な意見(いけん)を求(もと)めました。
また、亮(りょう)は必(かなら)ず悪事(あくじ)を除(のぞ)き、漢室(かんしつ)を復興(ふっこう)させることを自(みずか)らの任務(にんむ)とします。
建興(けんこう)五年(ねん)、多(おお)くの軍(ぐん)を率(ひき)い出(で)て、漢中(かんちゅう)に駐屯(ちゅうとん)し、中原(ちゅうげん)を制圧(せいあつ)しようと計画(けいかく)しました。
それから、魏(ぎ)の兵(へい)を倒(だお)すと、関中(かんちゅう)にいる魏(ぎ)の軍隊(ぐんたい)は驚(おどろ)き慌(あわ)ただしくなりました。
建康(けんこう)六年(ねん)の冬(ふゆ)、また、兵(へい)を出(だ)して多(おお)くの魏兵(ぎへい)を倒(たお)しました。
それから、民(たみ)を休(やす)ませること三年(ねん)、また、兵(へい)を出(だ)して五丈原(ごじょうげん)まで進軍(しんぐん)し、魏(ぎ)の将(しょう)の司馬懿(しばい)と渭水(いすい)の南(みなみ)で対陣(たいじん)しました。
懿(い)は亮(りょう)を恐(おそ)れて、陣(じん)から出(で)ることがありませんでした。その後(ご)、亮(りょう)は病(やまい)が重(おも)くなると、今後(こんご)の軍(ぐん)の行動(こうどう)について、うまく処理(しょり)できるように準備(じゅんび)を整(ととの)え始(はじ)めました。
自(みずか)らが死(し)んだ後(のち)も軍(ぐん)が落(お)ち着(つ)いて整然(せいぜん)として行動(こうどう)できるように整(ととの)えていきます。
そして、ついに亮(りょう)は陣(じん)の中(なか)で亡(な)くなりました。
【前回の記事を読む】武は義理に厚い男だった。君主の為、漢の旗を匈奴の中でも守り抜いた。