第二章 幼学綱要を読む

【忠節(ちゅうせつ)・第二】

支那史(しなし)

⑥漢書(かんじょ)(巻之かんの五十四・蘇建傳そけんでん二十四)

武(ぶ)は空(そら)から降(ふ)ってくる雪(ゆき)を食(た)べ、自(みずか)らの髯(ひげ)を食(た)べて過(す)ごしました。武(ぶ)は数日(すうじつ)しても死(し)ぬことがありませんでした。

匈奴(きょうど)の者(もの)は驚(おどろ)き、武(ぶ)を不思議(ふしぎ)な者(もの)と思(おも)います。それから、武(ぶ)を北海(ほっかい)(シベリア付近(ふきん))に移動(いどう)させて言(い)いました。

「羊(ひつじ)を放牧(ほうぼく)せよ。牡(おす)の羊(ひつじ)が子(こ)を産(う)めば国(くに)に帰(かえ)ってよい」

武(ぶ)は漢(かん)の国(くに)の旗(はた)を持(も)って、羊(ひつじ)を放牧(ほうぼく)しながら寝起(ねお)きして、しっかり旗(はた)を守(まも)りました。旗(はた)の先(さき)の毛(け)は、全(すべ)て抜(ぬ)け落(お)ちて無(な)くなってしまいました。

初(はじ)めは、武(ぶ)の友人(ゆうじん)である李陵(りりょう)が戦(たたか)いに敗(やぶ)れて匈奴(きょうど)の配下(はいか)になりました。陵(りょう)は武(ぶ)を見(み)て説得(せっとく)して言(い)いました。

「人生(じんせい)は朝露(ちょうろ)の様(よう)にはかないものである。なぜ自(みずか)ら苦(くる)しい道(みち)である、漢(かん)の旗(はた)を守(まも)ろうとするのか」

武(ぶ)は言(い)いました。

「臣下(しんか)が君(きみ)に仕(つか)えるのは、子供(こども)もが父(ちち)に仕(つか)えるのと同(おな)じことだ。子(こ)が父(ちち)の為(ため)に死(し)ぬことがあっても恨(うら)むことはない。必(かなら)ず武(ぶ)を説得(せっとく)しようとするなら、今日(きょう)の面会(めんかい)が終(お)わって死(し)のう」

陵(りょう)は悲(かな)しい顔(かお)をして嘆(なげ)いて言(い)います。

「ああ、武(ぶ)は義理(ぎり)が厚(あつ)い士(し)である。陵(りょう)と衛律(えいりつ)の罪(つみ)は天(てん)に通(つう)じるように深(ふか)い」