その後(ご)、昭帝(しょうてい)が即位(そくい)して匈奴(きょうど)の国(くに)と和睦(わぼく)を結(むす)びました。ここで、武(ぶ)は国(くに)に帰(かえ)ることができるようになります。武(ぶ)は国(くに)に帰(かえ)り、帝(みかど)に拝(はい)して典属国(てんぞくこく)という役職(やくしょく)を頂(いただ)きました。

武(ぶ)が匈奴(きょうど)に留(とど)まること十九年(ねん)。初(はじ)めは体(からだ)が強(つよ)く元気(げんき)な頃(ころ)に行(い)き、帰(かえ)ってくる頃(ころ)には頭髪(とうはつ)や髯(ひげ)は、ほとんど白(しろ)くなっていました。

武(ぶ)は八十数歳で亡(な)くなりました。その後(のち)、帝(みかど)を支(ささ)えた忠臣(ちゅうしん)として麒麟閣(きりんかく)に肖像画(しょうぞうが)や官爵(かんしゃく)姓名(せいめい)が残(のこ)されました。

⑦三国志(さんごくし)

【22】「諸葛(しょかつ)亮(りょう)」

三国時代(さんごくじだい)(西暦(せいれき)200年(ねん)位(くらい))の頃(ころ)の話(はなし)です。

蜀漢(しょくかん)の諸葛(しょかつ)亮(りょう)は字(あざな)は孔明(こうめい)。瑯揶(ろうや)の人(にん)です。襄陽(じょうよう)の山奥(やまおく)に一人(ひとり)、仮住(かりず)まいをして自(みずか)ら田(た)を耕(たがや)して暮(く)らしています。

その時代(じだい)、漢室(かんしつ)は衰退(すいたい)し乱(みだ)れて、国中(くにじゅう)が分裂(ぶんれつ)し、皇帝(こうてい)に対(たい)して反乱(はんらん)する者(もの)がお互(たが)いに争(あらそ)い合(あ)っていました。

涿郡(たくぐん)に住(す)む劉備(りゅうび)は王室(おうしつ)の血筋(ちすじ)で、身分(みぶん)が低(ひく)い頃(ころ)から兵(へい)を集(あつ)め、漢室(かんしつ)の復興(ふっこう)を志(こころざ)しました。後(のち)の昭烈(しょうれつ)皇帝(こうてい)のことです。

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