第一部 銀の画鋲

「牧師の奥さん」

次の日からカトリーヌはきっかりお昼の三時に息を切らしてやってくるようになった。

ワルツさんはそんなカトリーヌのために温かいお茶を用意した。

「時間になるまでゆっくり読むがいい。カトリーヌ」

ワルツさんはカトリーヌに肘掛椅子を譲ろうとするが、カトリーヌはニコリともせずに

「ありがとう」と言ったきり、本を選んで床に座り込んだ。

「まるで本にかじりついている虫だな」

ワルツさんの独り言はカトリーヌには届かなかったらしい。

カトリーヌはすでに彼方を見ている。白い帆船、誰も座っていない木の椅子、一度も会ったことのない人の横顔や雨上がりの虹を見ている。

人はひとつのパンだけでも生きていけるものなのかもしれない。

カトリーヌを見ているとそんな気がする。

お腹が空いていても、カトリーヌの扉は開かれている。

こっちの世界から見たカトリーヌの扉の向こうはとても美しいに違いない。

本を読んでいる時に限ってだけど。

ワルツさんはカトリーヌが本を読んでいる間は、肘掛椅子を窓際に寄せてぼんやり外を見ていることに決めたらしい。

僕は退屈にまかせて窓から外に飛び出した。

黒い森に行こう。

僕が黒い森の入り口に差しかかった時、牧師さんと牧師さんの奥さんが本屋のほうに歩いていく後ろ姿が見えた。

奥さんが牧師さんに大きな声で何か言ってる。

牧師さんが奥さんをなだめている。

両手で奥さんの手を自分のほうに引っ張っていった。

その手を振り切ると、奥さんは小走りに本屋のほうに駆け出した。

これは、ただごとではないぞ。

黒い森の散策は後回しだ。僕は踵を返した。