【前回の記事を読む】「世界は私たちが知らない小さな偶然の重なり合いでできている」
鶸色のすみか
白鳥さんのトイレタイムはいつも長い。
「お待ちぃ」
注文していた焼き鳥が運ばれてきた。二人分ずつ三種類頼んだから、温かいうちに自分の分を食べよう。
白鳥さんの美しい苗字と丸っこいアザラシ顔が一致しないことを思い出し、焼き鳥を味わいながら一人悦に入っているとにやにやが止まらない。そもそもアザラシの顔自体が正面から見るとおじさん顔だしな。
白鳥さんがやっとトイレから戻ってきた。トイレの長い男の人ってどうよ、と月子は思うのだが、詮索はしないしない、人の欠点は見ない見ない。店内の壁に掲げられた墨文字のお品書きを見て逡巡した末に、月子は蓮根のはさみ揚げを、白鳥さんはあん肝を注文した。
白鳥さんはビールでも日本酒でも、飲んでるとご機嫌だ。この店をとても気に入っているようだ。白鳥さんのささやかな幸せにわずかでも寄与していると思うと月子も幸せな気持ちになってくる。
「かぎろひ」は、月子にとってこのまちで仕事関係で巡り合った数少ない店だ。
数年前、友人のウェブデザイナーの紹介で、店舗設置用のフライヤーを作らせてもらった。写真やテキストなどの素材は友人から提供されていたので、「かぎろひ」の店主の意向をヒヤリングして、店の雰囲気に合わせた色調とイメージで、A4を三つ折りにしたフライヤーに仕上げた。一面黒ベースで、炎の画像を加工してレイヤードに重ねたデザインを大将はとても気に入った。
かぎろひ。かげろう。陽炎。皆同じ意味だが、古語の「かぎろひ」は、万葉集にも歌われている明け方の東の空に見える光だと、その時調べて知った。
店名の由来を確認するために、大将に聞いたら、「くつろぎ」とかそんな名前にしたかったらしく、そこで、自分の苗字の鍵谷の「かぎ」と「くつろぎ」をくっつけた造語にして、「かぎろぎ」となり、さらに「ぎ」を「ひ」にして、かぎろひ=陽炎となったそうだ。
結果的にネーミングとして成功したわけだが、月子の中で、古代の悠々とした自然と歴史のロマンを感じさせる「かぎろひ」のニュアンスが微妙にずれてしまった。気さくな大将で、肩の力を抜いた仕事をさせてもらい、小さな店のフライヤー作りの仕事もいいなと思ったけれど、このまちに友人や知人がそんなにいるわけではないし、自分で営業をするわけでもない。それでも、大将が知り合いの美容院がフライヤーを作りたいからと紹介してくれて、ポスティングのアルバイトはその美容院の縁で紹介されたのだ。
知らず知らずのうちに、自分がこの地域に根を張りつつあるのかなあと思う。測量士を生業としている白鳥さんは、全国の山、海、川、道路、地上だけでなく地中、ありとあらゆる場所を測量して渡り歩いてきたらしい。
高層ビルの建ち並ぶ都会、手付かずの山の中。白鳥さんは、「かぎろひ」の大将が集めたあまたの全国の地酒、焼酎を口にしながら、日本中の地方の話を訥々と喋る。月子はスマホの地図アプリを頭に描き、ドロップを逆さにした赤いピンを刺していく。白鳥さんの口から出る地名は、月子が訪れたことのない場所ばかりだが、頭の中は赤いピンでいっぱいになる。