第二章 文学する&哲学するのは楽しい
学問的な話も時にはいいもの、少し付き合ってくれないか?
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哲学は、一言で言うならば、「○○は××である」と言い切るために、生涯に亘り情熱を燃やす学問のことである。そのため、見えない相手に対し言葉・言語という手段を武器として、定義し尽くす戦いを挑み、得体の知れない概念という怪物と戦い続ける「素手の学問」である。正に「知の格闘技」である。また、“畳一畳あれば、私は世界を相手にできる”という「気概の学問」でも、言葉によってのみ世界を言い尽くそうとする「不埒な学問」でもある。
ミッシェル・フーコーもウィトゲンシュタインも、哲学という「ひとつの宿命」を生きた人である。我々庶民レベルにまで落とせば、普段に流される日常にあっても、不断に思考・思索を繰り返すことであり、庶民らしい語彙や喩えをもって「言葉でものごとを正しく言い当てる」ことを意味する。当然ながら、これにはまる人間には、ものごとを「言い切る」エネルギーとパトスが必要である。
一匹の哲学小童が格闘技の快感の味をしめると、一日たとえ15分でも妻子と離れ、我に返り、自分の言葉を紡ぐことになる。こんな無駄な時間も、かれこれ50数年間もやってしまうと、病みつきのやけのやんぱち風で、一つのクソ庶民史になる。
ついでながら、この世で一番美しいものがあるとすれば、自分の頭で描いた「観念の橋」いわば「哲想の虹」とでもいうべきものであろうか。虹は地上に接点を持たないがゆえに、絶望的にまで美しい。そして良好な「哲学的言辞」はいつも何かくすぐったい柔らかさを持つ。また、肌がぽっと赤らむような、柔らかな浮揚感がする。
悪乗りついででもう一つ、「もし・たら」や「たら・れば」による、「夢仮想人」の歴史シミュレーションの話である。庶民であっても、こうしていたら、今はこうなっていたはずであるという、将来に向かっての仮想ゲームである。
「それしかなかった」という支配側の論理を前に半ば沈黙するしかなかったが、AIに全情報を蓄えた上、庶民ファクターをこう変えれば歴史展開はこうなったというゲームを用意できる時代となった。同様なケースが発生しても、庶民側は同じ轍は踏まないで済むという夢仮想人作成のゲームである。
「私は君を支配しないし、君に支配されることを拒絶する」という哲学生理・倫理生理を練習問題として学習しておくというゲームである。ついつい、話が長くなってしまった。