それは大学四年生の夏のことだった。正次が夏休みに自分の家で研究会をしないかと教授に持ちかけて、結局教授と研究助手も含めて総勢十数名で押しかけることになったのだ。

正次の家に向かうのに自前の米を持参せずとも良いと言われ、一同はいたく感激し、ひょっとしたらうまい飯にありつけるかと、大いなる期待と共に正次の家があるという鶴前に向かった。

京都駅から日本海側に延びている、戦前は省線と呼ばれた鶴前線の車内は始発駅からやたらに混んでいて、網棚は乗客の荷物で溢れんばかり、子供も大人も入り交じって、それに追い打ちをかけるように朝鮮人の女が米を(かつ)ぎ込んだり、まさに当時の買い出し列車の例に漏れず騒然としていた。

駅弁などというしゃれたものはもちろんない。車両の天井には誰がやったのか、銀紙でこしらえた小さなワイングラスが逆さに貼りついている。やたらとトンネルを抜け、その度に鼻の穴が真っ黒になる。

しかしそのトンネルの間をかいくぐって眼下に()津川(づがわ)が流れ、その川を進む筏師(いかだし)が丸太を組んで竿(さお)を操り木材を運ぶ風景は、それなりに味わいのある風物詩だった。彼はすし詰め状態の通路に立ちっぱなしの小さな女の子に、折りたたみのキャンバス椅子を広げて座らせてやった。鶴前駅に着く直前に、(くだん)の朝鮮人の女が米袋を窓から投げ落としたのには一同唖然としたものだ。

着いてみると正次の実家というのは鶴前の町の中心地の東に位置しており、百五十坪ほどの広さの敷地に建てられた堂々たる洋館と、その北側に渡り廊下でつながれた、洋館より狭い木造の日本風の家屋からなる邸宅だった。その洋館は関西一円のミッション系学校建築や、多くの民家を手掛けたことで有名なアメリカ人建築家の設計によるものだとのことだった。

東京の旧華族邸のような瀟洒(しょうしゃ)なアール・デコ風の建築ではないが、車寄せのある玄関や丸いステンドグラスの窓、フランス式のドア、異人館を真似たようなコロニアル様式の階段や彫刻の施された渡り廊下、居間に鎮座するマントルピースなど、しゃれた趣のある(たたず)まいは、それだけでも来訪する者に強い印象を与えるものだった。

戦災に遭わなかった幸運がこの邸を一層風格あるものにしていた。正次は父親がこの家を建てたのは、洋館など見たこともない周囲の田舎っぺに強い印象を与えて威圧する為だと言って笑った。

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