Ⅰ レッドの章
依頼人
掛川の学生生活は、戦争が終わり、大学が新制に切り替わった年の春から始まった。旧制高等学校を繰り上げ卒業していたから、新制大学二年からの編入だった。
何もかも“ないない尽くし”の日々だったが、教師も学生も若かったし、戦争中の困難を生き延び、やっと命の心配をせずに勉学出来るという安堵と期待に燃えていた。
戦前・戦中の若者と決定的に違っていたのは、彼らの心を明るく照らす希望があったことだ。最早死の恐怖にさらされることもない。そのお蔭で多少の不都合や空腹も耐えられた。
彼の同期生は学徒動員から生還した者や、外地から復員した者もいて年齢や家庭の事情もばらつきがあった。十八歳になるかならないかの若者もいれば、すでに三十歳近い兵役帰りの猛者もいた。
実は掛川は法学部に転部する前に理学部に在籍しており、召集が遅かった。それは頭の回る叔父の入れ知恵だったのだが、結局学徒動員で一日も大学の授業に出ることなく、終戦の年には京都の伏見の連隊にいた。だが幸い外地に飛ばされる直前に終戦になったので復学し、理学部の授業は受けないまま、その後思うところあって学部を変わっていた。
掛川は神林正次と同じゼミに属しており、彼が金持ちの息子で、父親は戦時中海軍御用達の海運会社社長だったという噂は知っていた。
正次は体が弱かったのか兵役は丙種合格で召集は猶予、外地に飛ばされることもなく、命拾い組の一人だったらしい。ゼミでは大人しくて目立たない男だったから、もし学生生活最後のその夏休みの出来事がなかったなら、正次のことは忘れていたかも知れなかった。