ドクターシェシャルクはジークフリードというワグナーの楽劇にでる人名と同名で保がそれを知っているのを奇異に思うオーストリアの山中の、(くしけず)る毎に残り少くなる頭髪を気にしながら房々としたあごひげをしごく二十八才の青年である。あごひげはクリスマス前ブルンクにみっともないからと云われて取ってしまったが。

オーストリア人なるが故に独乙人からよく思われず、彼はオーストリアは南独乙だと主張してもブルンクは全く別だと蔑視し、又そう云われても仕方ないオーストリア人一般は、一寸した傷にでもすぐ涙をはらはらこぼし、胸や腕に女の顔や蛇の刺青をし数珠玉の様なネックレスをくびにして手放しで泣く人々が多い中に、シェシャルクは少数の一人として孤独にノートを手にしルーマニア語日本語を暗記しながらブルンクが「ドクターらしく椅子に腰かけていなさい」と注意するのもきかず大股に日独両医務室の隅から隅へと往復してもくもくと歩き続けている。

夏、僅か許りの地所を耕作する事が許された時、彼は日曜日毎独りでタバコ、トマト、ヒマワリを育て終日水を運び収穫はブルンクがし、先達て保の誕生日のトマトも捕虜は何も贈る事ができない、只喜び丈だとくれた彼の僅かな収穫の一つであった。

捕虜生活も時候のよい間はまだよい。此処は療養所とは言いながら入院者以外は夏は畑、道普請へ出されるがそれはまだのんびりしたものだが、カラカンダへの唯一の自動車道路の除雪作業が厳寒になり全くソリ以外の交通が杜絶するまで続けられる間は、毎日夥しい凍傷患者が医務室を訪れるのだ。

手術途中で麻醉が切れメスで自分の足ゆびをきられているのを見て異様な叫びを上げ、あわを吹き放尿して長椅子から転げ落ち気絶する(きゅう)帝国軍人。

何と言っても軍医見習士官が敗戦途次、何時の間にやら軍医少尉になりその下で働く保が全くの素人で看護要典という何処からともなく入った軍隊本を見ながら仕事するとあっては誠実のみがより所なのだ。

新しい患者を見れば山下軍医は仲間の処へききに行き、保は仕事後此処と炊事場丈に許された裸電灯を頼りにブルンクから借りた厚い医書を前にして例の独乙語参考書の欄外にちびた鉛筆でメモしてゆく(うち)に、何のために毎日暮しているのだろうかと捕虜の身もわすれ、早くよいにせよ悪いにせよ、けりをつけてくれんかな。戦友でうまく内地へかえれたのがいるかしら。

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