一歩退いて考えれば、ホモサピエンスにとって種の保存こそが最重要であり、二大要素の食糧獲得と生殖を損なう超自然現象は、「鎮める&祈る」対象であった。学者が唱える抽象感覚の「アニミズム」などではなく、ド具象としての「自然崇拝」であった。それは、次第に存在や現象と自分たちの接点である「拠り処」を設け、鎮魂・交信・祈祷・共生への行為を生むことになる。これが、私なりの自然崇拝に始まる原始宗教発生のイメージである。

とかく学者の説は原因結果の因果逆の例が多い。どう考えても、宗教的直接性必要性が「因」で、アニミズムのような抽象感・抽象観の獲得は「果」である。

さて、その後、宗教はシャーマンの登場や宗教の政治利用、さらに政教の野合を見ることになり、様々な地域で各様な規範や倫理を説きつつ、今日の発展段階にある。世界は、宗教原理主義による戦争や政教未分離に伴う教義強制の害に苦しめられる一方で、宗教不要論者や無宗教者が出る時代を迎えている。

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代数学嫌いの私が、因数分解が数学ではなく哲学であること、哲学分野における数字表現であること、様々な事象のヘッド言語や同一概念を括り出すことにより群れの形にまとめる人間的行為であることに気付くのに、回り回って人生の半分近くも要してしまった。誰も教えてくれなかったからである。

遅まきながらそれに気付けば、数学も我が身のすぐそばの学問であり、抽象遊びができ楽しいではないか。虚数も、目に見えない真実を表すという意味において哲学である。回り道も無駄ではなかったということだろうか。

例えば文学界においても、『坂の上の雲』『街道をゆく』等の諸作品は、「権力悪と国家悪に鈍感」をヘッド言語にするとサラリと因数分解できてしまう。因数の括り出しは一朝一夕にはできないかもしれないが、やり出すと痛快である。眠られぬ夜は、「因数括り出し遊び」でもやって楽しもうではないか。

【前回の記事を読む】「悲しいことがあったからといって、他人に優しくする必要はない」