ジャンネット
一五四七年、ジャンネットは二二歳の青年となっていた。
「やっと、『あの悲しみ』が癒される時が訪れた」と、心から思った。
ジャンネットは、微笑みながら、赤ら顔のルクレーツィアの左手の薬指に指輪を通し、溢れんばかりの愛を込めてキスをした。一八年前、一家はパレストリーナのペストの流行が落ち着いたことで、ローマから故郷に戻り穏やかな生活を取り戻していた。
ジャンネットは、美しく澄み渡る声を持っていた。六歳の時、ローマの「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂」聖歌隊養成学校に入学し、ボーイソプラノに選ばれ、音楽家への扉が微かに開かれたのである。
「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂」は、その名の通り「聖母マリア」の愛が溢れる教会で、ジャンネットを優しく迎えてくれた。その後打ちひしがれた彼を癒してくれたのも、更にその昔、『アヴィニョン捕囚』(一四世紀ローマ教皇の座が七〇年近くフランスのアヴィニョンに移された)に疲れ果てたグレゴリウス一世を迎え入れたのもこの大聖堂であった。
学校では、六年間の生活の一切が保証されていた。司教総代理に預けられ、音楽は楽長自身から学ぶのである。グレゴリオ聖歌、合唱音楽、作曲理論、オルガン等であった。
文法はイタリア語・ラテン語をそれぞれの教師から学んだ。正しく歌えるようになったら聖歌隊に加入し、教会の全ての典礼・祈祷でグレゴリオ聖歌を歌った。
そんな中一一歳の冬、母パルマが亡くなった。危篤の知らせに取り急ぎ戻ったものの、最期の別れの言葉を交わす事も出来ず、葬儀にだけ参列したのである。病気がちではあったが、慈愛に満ち溢れ気丈な人だった。
父サンテは穏やかでいつも思慮深い人であった。豊かではなかったが、弟シッラ、妹パルマの五人家族は、敬虔な祈りと笑いに満ちていた。サンタ・マリア・マッジョーレ行きを誰よりも喜んでくれた母であったのに。悲しみに打ちひしがれたまま、ジャンネットはローマに戻ったのであった。