パレストリーナ

地中海に大きく突き出した長靴型のイタリア半島。その背骨をなすのがアペニン山脈である。その西側中央は、四〇〇キロメートルの長旅を終えた大河テヴェレ川が、ティレニア海に注ぐ扇状地となっている。

現在は、イタリア(四七六年の西ローマ帝国滅亡後一八六一年までイタリアという統一国家はなかったが)の首都、人口三〇〇万人のローマ市が広がっている。テヴェレ川に二分されたその地域の南部は、二八〇〇年前からラテン語を話すラテン人の故郷であった。

その地域は現在でも「ラティナ」と呼ばれている。ローマを含むこの地域一体が現在「ラツィオ州」と呼ばれるのは、「ラテン」の語源ともなる古い地名「ラティウム」に由来している。ローマ市はイタリアの首都であり、ラツィオ州の州都でもある。

ラテン語はヨーロッパでは教会や学問の標準言語であり、近代までは知識人の公用語でもあった。今でも一部で根強い人気がある。何よりも、ローマカトリック一二億人の総本山、ヴァチカン市国の公用語である。現在でも公式行事において、聖歌はすべてラテン語の歌詞で歌われている。

一五世紀に、活版印刷が発明されたことにより、聖書が印刷された。更に宗教改革により、聖書が各国語に翻訳されるようにもなったのである。しかしそれ以前、ラテン語を解せない人々にとって、「手書きのラテン語聖書」に示されているキリストによる真実の教えとその深遠さ荘厳さは、「絵」と「歌」と「建物」を通して、聖職者から口伝えされるものでしかなかったのである。

『全ての道はローマに通ず』

古代ローマ皇帝時代、帝国内に縦横無尽に張り巡らされた道は、軍事街道である。最も古く有名な「アッピア街道」は紀元前三一二年から作り始められている。最大のライバル同士でもあったローマとナポリを結ぶこの道は、常に軍隊が行きかう道であった。「アッピア街道」の東を通り同じくナポリに向かうのが「ラティーナ街道」。そのさらに東を通るのが「プラエネスティーナ街道」である。

ローマ市内のアウレリアヌス城壁から東に「プラエネスティーナ街道」を進むと、やがて左右に山が近づいてくる。右に見えてくるのがアルバーニ丘陵。古代ローマ人の保養地として知られ、現在でもローマ教皇の夏の住居がある。西側にはアルバーノ湖やネーミ湖、そして美しいブドウ畑が広がっている。左側の山裾には、イタリア一美しい噴水公園として知られる世界遺産「チボリのエステ家別荘」がある。

その後南東に向きを変えると、進行方向正面の山に町が見える。この街道の終着地プラエネスティーナ、現在、パレストリーナと言われる町である。プレネスティ連山の一つジネスト山中腹にあるこの町は、山の頂にあるサン・ピエトロ廃城の残された外壁が冠に見えるためか、「冠の町」とも言われている。

ローマから五〇キロ程離れたこの町は、古代ラティウムの「山の中心」といえる。「ステファーネ」「ポリステファーナ」「プラエネスティーナ」「コローニア・ティティア」「ペネストレ」「プレネスチーナ」「ペレストリーナ」「プレネスティ」他、現在のパレストリーナに定まるまでの地名の多さは、この町の不安定な歴史を無言で伝えている。

ローマ時代の歴史家ストラボーネはこの町の事をこう伝えている。

『食料が豊富な事、場所が地理的に有利な事頑固な要塞である事は、この町にとってかえって害になっていた。ローマで争いが起きると、反逆者達は軍備の調達にやって来た。その為攻略、略奪、破壊、虐殺が繰り返された。』

しかしローマ時代より次の二〇〇〇年間も、この町の歴史は同じ事が繰り返された。

古代にこの町を有名にしたのは、「フォルトゥーナ神殿」と、そこから与えられる神託であった。フォルトゥーナはローマ神話に伝わる「運命の女神」「幸運の女神」でもある。英語の『フォーチュン』(幸運・財産)の語源となっている。この異教徒の建物は四世紀ころ歴史の中に葬られ、その建物の一部を使用して新たに町の守護者「聖アガピト」に献じられた大聖堂が建てられた。

現在『パレストリーナ大聖堂』と通称されるこの教会は、キリスト教の公認後五世紀に建てられた、現存する世界で最古の教会の一つである。丘陵地にあるこの地域一帯は、涼しい風が吹くため、ローマ時代には避暑地として盛んに別荘が建てられた。この町にはかの有名なシーザー(カエサル)や初代皇帝アウグストゥスの家もあったと伝えられている。

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