パレストリーナ
一一世紀中葉からパレストリーナの住民はコロンナ家の家臣であった。ローマ(ローマ教皇領)とナポリとの抗争の狭間にあって、常に揺さぶられていた。一四三七年、この町はローマ教皇軍により完膚なきまでに破壊された。
やっとステーファノ・コロンナにより再建が始まった矢先、一五二二年にローマをペストが襲った。そのころパレストリーナの町では、若く逞しい護衛兵サンテと小柄ながら愛らしいパルマが結ばれた。二人は「キリストの御聖体信者会」の一員で、敬虔な信者であった。ところが幸せは束の間、今度はパレストリーナの町をペストが襲う。
サンテは父ピエルルイージを亡くした。失意の中、母と共にサンテ一家はローマに避難したのであった。
そのような中の一五二五年、輝く光の下、サンテとパルマの溢れる祝福を受けて一人の男子が誕生した。ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(パレストリーナ生まれのジョヴァンニ・ピエルルイージという意味)と後世語られ、何も断らずにパレストリーナと言えば、「この町」の事よりも「この人」の事を指す場合が多い。
パレストリーナという町は、この人の故郷として世界中に知られているのである。学校で学ぶ音楽の時間は、その歴史はバッハから始まることが多い。故にセバスチャン・バッハは「音楽の父」と称される。
器楽が中心の現代と違い、人間の声による表現はキリスト教の世界では唯一無二のものであった。楽器はあくまで人間の声を補う程度にしか存在していない。
パレストリーナと言えば数多くの称賛の言葉で溢れている。
「カトリック音楽全体の父」「カトリック最大の作曲家」「音楽芸術の頂点」
ヴァチカンは「パレストリーナの作品を、宗教音楽作品の規範とすることが望ましい」と定めている。
パレストリーナ様式と後世称されたルネサンス音楽の極致から、バッハは対位法を学び、モーツァルトもベートーヴェンも、それぞれの最高傑作である『レクイエム』や『ミサ・ソレムニス』の作曲に際してその作曲技法を学んでいるのである。
サン・ピエトロ大聖堂内の共同墓地に安置されている彼の柩には、『音楽のプリンス』と彫り込まれている。しかしここからは、敬愛と親しみを込めて彼を『ジャンネット』と呼ぶことにする。この呼び名は、家族や故郷の親しい間柄で使われていた愛称であったから。