そういう状況にあるにもかかわらず、小学校では大きな声で教員が決めた台詞を順番に言わせる“呼びかけ”にこだわる。
そこで「マスクをしているとよく聞こえない。はずさせてもいいか」と聞きにくる。
歌にもこだわる。「歌がない卒業式なんて教育的意義がない」と顔を真っ赤にして主張する。
「いやいや、先生、いまは緊急事態ですよ。子どもの安全を守るためには、工夫しないといけないでしょう。式を縮小すれば、練習時間も短縮できる。多人数で集まる機会を少しでも減らせば、それだけ感染のリスクは減るでしょう」
と言うと
「子どもたちにとって、卒業式はそんなに軽いものじゃないでしょう。そんなことならいっそのことやめたらどうですか」
と、怒気を強めて言う。
「いや、あのね……」
教育委員会も実施に舵を切っている中で、自分の学校だけやめたら説明がつかない。子どもはもちろん、子どもの晴れの姿を見たいと願う保護者が納得するはずはない。
そのベテラン教員も、本気で卒業式をやめてもいいと思っているわけではない。そのことは私にもわかっている。卒業式を少しでも感動的なものにしたいという思いは校長も同じである。
だからこそ現状を客観的に見て、限られた条件の中で可能な限り良いものにしようとする工夫が必要である。
彼らは“呼びかけ”や合唱など、自分がやってきた形の一つひとつに教育的意義を見出してきた。だから、形が変わったり削除されたりすることがすぐには受け入れられない。
それは、自分の“信念”を曲げることだと感じるからであり、同時に自らの実績を否定されるのではないかという“不安”を抑えきれないからである。
けれども私は、こうした自らの経験だけを頼りにする姿勢こそが、逆に“不安”を生み出しているのだと感じる。社会の状況が変われば学校のあり方も見直さなければならない。状況を冷静に判断し、広い視野で対応する柔軟さを持たなければ、現状を打開できず、彼らの“不安”は一層大きくなるだろう。