私は彼の正確な年齢をついに知ることはなかったが、しかし真に普遍性が宿るべきインスピレーションの源泉とは、それを理解するための一切の手続きを省略しても、間違いなくそこに尚あまりあるものであり、彼の存在そのものが、彼の履歴書に記されるであろうすべての情報を押しのけて、さらに言えば、ついに瞬間と永遠とを直接結び付ける媒体としての役割を果たし得たとしても、それはまったく不思議なことではないのである。

私が青春という言葉から連想する第一のものは、アイデンティティーである。そして青春の経験のすべては、このアイデンティティーの確立のためにある。故に青春とは主観的であり、非連続的であり、そして損得勘定抜きである。

ここは、その人生において存在と個性がイコールになる唯一の時期であり、排他的であるにもかかわらず本質的であることが、誰の目にも証明される、言ってみれば精神の故郷が形成される時期でもある。だから青春とは旅であり、模索であり、また迷走である。

私は彼の中に、ここに述べたすべてを見る。彼は青春の彷徨の末にある境地に達した。きっと彼はこう考えたに違いない。幸福を基準にするのであれば、客観的に信頼に足るデータというものは、おおよそ意味を持たない。永遠は瞬間とつながっており、自身の極めて排他的な判断によってそれは意味を持つことになる。

その唯一の条件はその判断が善に基づいていること。ここに来るべき言葉については、まだ述べる必要はないであろう。だがここには、知の可能性を信じる者に共通の恍惚がある。

なぜならば、現実というものは(ことごと)く理想とは真逆の価値観によって構成されており、しかもそれらは、取引が成立しない限り何ら意味を持ち得ないものであるがために、実に正確に本質から逸れ続けているからである。ここに歯痒さを感じない知的エリートはいないであろう。本質を見抜く力があるからこそ、利と無縁であるという孤独感と寂寞たる思い。利と理の乖離は悲劇しか生まないことは自明であるが、もしここに私が彼についての記録を残さなければ、間違いなくその確率は高まるであろう。

それほどまでに永遠につながらない瞬間の連続によって、私たちは負の覚醒に翻弄されている。私は彼の記録をここに残すことに、ある種の運命さえ感じているのだ。普遍的な価値が最先端の認識とクロスする時に、真の芸術が生まれる。これを創造の化学反応と呼んでも差し支えあるまい。

彼は実践する哲学者であり、芸術家であり、またしばしばパスポートを持たない預言者である。計算ではなく調和であり、事実ではなく感覚であり、何より形而下ではなく形而上である。

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