二十六
獣のように荒い息をつき、自分が生きていることを確かめなければいられないという時期が誰にでもあるものだろうか。修作は十代の半ばから二十代の半ばまでがそうだった。
父親が他界したのがちょうど二十代半ばで、つきものが落ちたように、修作は死んだように生きはじめた。自分を抹消して、息をつめ呼吸音を出すことにも細心の注意をはらい、生きているのか死んでいるのかわからぬようにして、その日その日を暮らした。でもだからといって不思議と行き詰まった気はしなかった。
そうした日々を経てみれば、荒い息をしていた時とたいした違いがない。
高ぶった熱を帯びていることと、冷静に瞑想に近い冷めた熱量と、その芯にある己の生き様は放出の現象が変化をしているだけだと、老年になればなるほど、そうだな、と合点がいったような気持ちがしてくる、といったん着地しておきながら、夜半のけだるい疲労に目を開き、いやいや、老年になればなるほど、着地点の見つからない混沌とした迷いに、入っていくのではないか、と唖然として、寝返りをうち闇の無音の界を探るように目を光らせていたりする。
とうてい何年生きたって解決などしない。結句何もわかっちゃいないのだ。わけもなく悲しんだり涙が出るのもこうした頃からのことで、理由も何もない、ただ哀しくなる。眠っている間でさえ涙を流し、朝目を覚ませば目尻には涙の流れた跡がこびりつき、こわばりをたどれば、頬を縦にカーブを描いている。
ああ、なんで生きているのか、もう終わっているのか、もう、済んでしまったのか、若年の修作は、可能性、可能性と、己に過大な期待を募らせていたわけでもないけれど、数年、数十年の生の先には、自分の身の丈なりの可能性を推し量りしていたものか、だからこその老年期の済んでしまった感の極まりか。
生に執着するエゴは醜くて感に堪えないだろう。その脆弱な心……永遠に回収に来ることのないポストのように地の底の暗闇から聞こえてくる断罪の声々に、じっと耐えて聞き続けなければならない。