脳腫瘍になって
そう、忘れもしない。2月の終わりのまだまだ寒い冬の夜だった。冬の空は澄んでいて月がくっきりと浮かんでいた。衝撃的な夜だった。仕事から帰ってきた彼は、いつもなら
「ただいまー」
と言って、元気よく入って来るのに、無言だ。
「お帰り」
と言っても、何の反応も無い。
「どうかしたの?」
と聞くと
「バスを降りて玄関のドアを開ける頃から何かおかしい」
と言う。いや、もっと前からおかしかったのかもしれない。やっとの思いで、家に辿り着いたのではないだろうか。その時の彼の様子を見て、何となくではあるが、そう感じたのである。
「夜道で具合が悪くなり、倒れないで良かった」
とそう思った。夜道で倒れたりしていたら、誰にも気づかれず、朝までそのままで、きっと亡くなっていたかもしれない。家に入ってきた彼は、ぼおっと台所に立っている。
「疲れたのでは?」
と、伝えても何の反応も無い。
「少し横になったらどう?」
と伝えると、
「分かった」
と言い、自分の部屋に何とか入って行った。でも何かおかしい、嫌な予感がした。少したってから様子を見に行くと、帰ってきた服装のまま横になっている彼の姿があった。何か様子が変で顔つきもおかしい。
「自分の名前を言ってみて」
と言うと言えない。彼に何かが起きている。脳に異常が起きているのだろうか。そう確信したと同時に、子供達に慌てて連絡した。病院に行こうとして、洋服を着替えさせようとしても、手を動かす事ができなくて、袖が分からなくうまく着られない。この時、本人も袖を通す動作さえ分からなかったのだ。子供達もまさかそんな重症だとは思わなく、
「少しでもおかしいと感じるなら病院に連れて行けば」
と言う程度だった。息子が勤めている大学病院で待ち合わせて連れて行き、検査を受けた。しかし病院に着いた時は、もう彼の顔は真っ青、目もうつろ。
「お名前が言えますか?」
の問いかけに何の反応も無い。慌てて診察室の中へ入ると、息子の前で痙攣を起こし、意識が無くなった。
「もう駄目か」
この時はそう思った。もう少し連れて行くのが遅かったら生命も保障できない位、重症な状態だったのである。検査の結果、頭に腫瘍ができていたのだ。担当の先生からは、
「検査してみないと、悪性か良性か分かりませんが、腫瘍ができています」
と告げられた。おそらく悪性ではないかという事は、画像を診た担当の先生、息子には、分かっていたと思う。