一年後の明治十八年十月、森はドレスデンに異動した。間もなくミュンヘン大学へ移り、ペッテンコーファーに師事すると、翌年の明治十九年三月にベルリン行きを決めた。コッホの設立した衛生試験場に入るためだった。
コッホは細菌学の大家で、森の後輩の北里柴三郎が、その一年前から留学していた。すでにコッホの雷名は日本でも轟いており、森は先に弟子入りしていた北里を頼りにすることにしたのだ。北里は今もドイツにいて、破傷風菌の発見に挑戦しているとのことだった。
「ほう……、北里柴三郎のところに」
万条はその名前を思い出した。年齢を若く誤魔化して、東京医学校に入学したという男で、こちらも大御門の手紙で初めて聞いた。
「なるほどな。そこで、さっき話したドイツ人女性と知り合ったわけか……」
また大御門が、半笑いで話を蒸し返した。森は俯いたまま言葉を濁したが、そのあと急に、思い出したように言った。
「そういえば、日本で教えていたという外国人教師に、現地で何人かお会いしましたよ。ポンペ先生にも、お目にかかりました」
「ポンペ?」と、万条がすぐに反応した。
「はい。ドクトル・シーボルトのあと、安政の頃に長崎で医学を教え、長与専斎先生も学ばれた、あのポンペ先生です」
ポンペは幕末の安政四年(一八五七年)から五年間、長崎出島で活動したオランダ人医師だった。日本に西洋医学の種を撒いた先駆者で、それ以前にはシーボルトがいたものの、いわゆる『シーボルト事件』により交流は途絶えていた。