下の方から電灯を持ち歩いて来る人たちがいました。浦上方面から逃げて来た人たちです。無言のままばらばらに通って行きます。いまにも死にそうな人も通って行きます。あれだけの負傷をし、この道をどうやって登ってきたのだろうと思いました。

やぶ蚊がわたしの手や顔を刺します。わたしはその蚊をたたきつぶします。わたしは極限の状況にいても蚊に刺されると痒かゆかったことを、六十年経ったいまでも憶えているのです。

そのうちに峠をすこし下った場所から浦上盆地を見渡すことができることを知りました。わたしが二年前に家族とともに長崎に来て毎日女学校に通い、その後は軍需工場に通い、わたしの住む城山や浦上天主堂の建つ浦上の丘が下方にあるはずですが、眼下の盆地のあちこちから火の手が上がっています。

また下からはときどき何かが爆発する音も聞こえてきます。あの闇と炎と爆発音のするどこかに、わたしの母や弟、わたしと日々おしゃべりをした友人たち、わたしにキリシタンの迫害の歴史に興味を持たせてくれた神父さんや信者のおじさんやおばさん、もろもろの人たちがいることを思いました。

その人たちがみな広島を全滅させたと同じ新型爆弾で死に、いま燃えているのかもしれないと思いました。下からは阿鼻叫喚の声が聞こえるようでした。わたしは戦争を憎みます。これほど憎むべきものはこの世にありません。

ですが、戦争はいつの時代も起こりえます。わたしは昭和二十年八月九日の夜、長崎の山の上で、人類最悪の業火を唯一人で見ていたのです。まだ十八歳の少女にすぎないわたしがそれを見ていたのです。あの炎のなかから、不死鳥の火の鳥が飛び立つことは、ついになかったのです。火の鳥は幻にすぎなかったのです。

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