夢の記憶

なんとか我慢して、三十分ほど過ぎたとき、看護師らしい人が入ってきた。そのとき気づいたのだが、この建物はあとから付け足されたものらしい。細長い部屋が細かいブースのように仕切られていて、ほかの部屋にも人間の気配がした。これで終わりかと思ったら、それから延々と一時間以上、採血採尿、既往症の有無など、診察は続いた。

すでに時間は午後三時を過ぎていたが、朝からなにも食べていなかったので、気が遠くなり、倒れるかと思った。まだ医師らしき人には会っていない。

看護師が「こちらへどうぞ」という方向に付いていくと、やっと三人乗れるぐらいのエレベーターに通された。エレベーターが止まると、車椅子が用意されていた。来るときと違う看護師が、

「これに乗ってください。なるべく車椅子の肘掛け以外には触れないようにしてください」

私は忠実に従った。

ここが何階なのかもわからない。この病院のスタッフは、誰もが防護服を着て、顔のほとんどの面積をゴーグルとマスク、目深に被ったフードで覆っていて人の表情は窺い知れない。若いのか年配なのかもわからない。私の乗った車椅子は、廊下の突き当たりの部屋の前で止まった。ドアノブを特殊な道具で開けて、私を車椅子に乗せたまま部屋に入った。

「お部屋はここになります。荷物を降ろして、貴重品はベッドサイドの引き出しに入れて、鍵は必ず腕につけてください」

ここで初めて彼が男性看護師だと知った。こんなに具合の悪い思いをしたのは、生まれて初めてだった。朝からずっと緊張して、我慢していたからだろう。病院指定のパジャマが届けられ、着替えてベッドに横になったところまでで、記憶が止まっていた。

目を覚ましたのは、夜半過ぎだった。朝からなにも食べていなかったのに空腹を感じない。ふと見ると左腕には、点滴がつながれていた。巡回してきた看護師に、トイレに行きたい旨を伝えると、部屋のトイレを使用して、部屋からは許可が出るまで出入りをしないように言われた。

トイレに行こうとして立ち上がったが、フラフラして点滴スタンドにつかまっても数歩歩くのがやっとだった。なんとか壁のてすりにつかまりながら、トイレを済ませた。ベッドまで数メートルしかなかったのに、帰りはふらついて転びそうになった。熱が上がってきたのと、猛烈なのどの渇きを感じた。部屋を出る許可がないので、迷ったがナースコールを押した。

「どうしました?」

男性の声だ。

「のどが渇いたので、飲み物をください」

「はい、少しお待ちください」

そして現れたのは、入院したとき部屋に案内してくれたのとは違う男性看護師だった。この病院は、男性患者には男性の看護師がつく決まりがあるらしかった。経口補水液を手渡された。飲んでみたけど冷たくない。

そう言うと、「熱のあるときは、あまり温度差のない常温の飲み物にしたほうが、内臓に優しいですよ」と、彼は言った。

そんなもんかなと、納得した。なぜこうなってしまったのだろう。

この際だからよく、今までのことを考えてみようと思った。

未成年のうちから、両親がいなくなり、私は路頭に迷ってしまった。両親の離婚は、私の責任ではないが、今まであまりにも場当たり的に生きてきたから、こうなってしまったのだろう。

私が十六歳の夏、母が脳梗塞で突然死んだ。心の準備もなにもできていないままで、お金もなかったので、葬式も出せなかった。母の会社の人に聞いた話だが、一日三万歩近くも歩き、住宅地を一軒一軒訪問して、ガス器具を売り歩いていた。遺体になって初めて見た、母の足先はひどい外反母趾になっていた。

些細な理由で高校に行かなくなり、毎日怠惰な生活を送っていた私を、母はどんな思いで見ていただろう。母は本当に仕事が好きだった。極論を言ってしまえば、母は結婚すべきではなかったし、親にも向いていなかったと思う。私が物心つく前から、ひどい夫婦喧嘩をして近所の人や、警察までもが仲裁に入る事態になったことが何回かある。

父は私を置いて出ていった。父も私に対して、愛情も執着もなかったのだ。どこかへ連れていってもらった思い出も、なにかを買ってもらったことも、なにも記憶にない。これは、産みっぱなしと言うのではないか。

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