しかし頼朝の命を助けた温情が、後の平家滅亡の始まりであることは歴史の示すとおりである。生活の糧かては、頼朝の乳母の比企の尼の領地武蔵の国比企郡から送られ、尼の三人の息子たちが身の回りの世話をした。
都で幼年期を過ごした源氏の跡取りが、縁故のある東国に配流されてきたのであるから、青年期になると彼は近郷の豪族の娘たちの評判となり、その寵愛を受けようと、密かに通ってくる女も多かった。娘たちと頼朝との房事を耳にするたび、政子の躰の芯は疼くことはあっても、その様な交わりに自分も加わろうという気持ちはなかった。
(私のすべてを捧げられる男の条件は、唯一つ、自分を超えた見識と将来性、そして自分だけを大切にしてくれる男性である、私はそんなふしだらな娘とは違う)
頼朝は、流人とはいっても、ついこの前までは東国武士の統領であった清和源氏の嫡流である。頼朝がこの地に配流されて以来ほぼ二十年、近在の恐らしき武者らとは違い、育ちが良く、人間としての資質と可能性は十分と観察した政子は、これは只のお人では無いと感じていた。
政子の妹が奇怪な夢を見たと言うのである。その夢とは、妹が
“どこか高い山に登り、太陽と月を左右の袂たもとに収め(天下を取る)橘の三個なった枝を振りかざしていた”
というものだ、妹はそんな不思議な夢を政子に語った。すると政子は、
「この夢は災いをもたらす怖しい夢で、七日以内に他人に話すと不幸になると言う。私に売ってしまいなさい」
凶夢は売れば災いを転嫁することができるという信仰がこの時代にあり、妹は承知して夢の代として鏡と唐から綾の小袖一重ねを姉からもらった。『曽我物語』によれば、政子が頼朝と結婚したのは、その夢が吉夢と知っていて、目論見通り頼朝が天下人になると、考えたからだと言うのだ。
この時代の結婚に関して調べてみると、古来、武家社会での婚姻は家同士で行う政略結婚だと思われていた。しかし、そうなったのは後世、戦国から江戸時代にかけてであって、中世のこの時代は源氏物語などでみられように、日本の女性は性愛を愉しむことを大前提としてきたから、女性たちは誰もが奔放であり、何日も家を留守にして男たちと交わっていたのである。