第1部 政子狂乱録

二 (あら)(ばち)を割る

まだ若い身空で“大池に泳ぐメダカ”との夫婦生活はいくら何でも(こく)である。頼朝は笑顔を浮かべ政子の不安を和らげる様に諭した。

「政子どの、ひとえにこの世のお道具というものは用の無いときには、邪魔にならぬように小さく収めておくのがよいのです。なまじ大きいと収納する場所にも苦労するし、何より、その様なものが体に備わっていれば戦いの場では邪魔になって存分の働きはできないものです。

その様なことは女子(おなご)の貴女には理解できないことでしょうけど、今は小さくみえる私のこの一物も、一旦緩急の際と平時とでは大きさは違うのですよ。いざ出陣となれば立派にそのお役目を果たすべく、堂々とした雄姿をお見せすることになるでしょう」

部屋には、高徳の聞え高い(かわ)(ぶくろ)和尚(おしょう)の一幅が備わっている。

“たとえ今、吾は囲いの稚魚(ちぎょ)なれど、とき至らばその雄姿あらわさん”

ここには再起を計る頼朝の強い決意が表現されている。

「私は、今はあなたたちの庇護を受けて、小さな孤島で身を慎んでいる身ですが、いずれは源氏の統領として世に出なければならない覚悟があるのですよ」

政子から「佐殿」と呼ばれる頼朝は、久安三年(117)源義朝の庶長子として尾張の熱田に生まれた(側室の子まで含めれば三男)。平治の乱(1159)で父の義朝が平清盛に殺されてしまったが、幼かった頼朝は一命を免れて、この地へ配流されてきた。頼朝が命を救われたのは、池の禅尼の助命によるもので、彼女の亡き子、家盛に似ていたためであったと言う。

禅尼は平忠盛(清盛の父)の後妻で清盛の養母となり家盛、頼盛を産み六波羅池殿に住んでいた。この縁で後年、平氏一族西走の時も子の平頼盛は都に残り頼朝の庇護を受けている。