【前回の記事を読む】酒量についての記述が残る信長の「下戸であったがゆえに大損」

第一部酒編

秀吉と家康

織田がつき 羽柴がこねし 天下餅すわりしままに 食うは徳川

という狂歌が残っています。詠み人知らずと言われているこの歌、名が知れればおそらく捕縛され打ち首にされることは想像に難くありませんから、作者は意図的に名を隠したのに違いありません。

しかし、よくできた歌ですね。戦国時代の終わりから江戸時代を迎えるまでを、三十(みそ)一文字(ひともじ)で見事に表している。そこで私も先の狂歌をまねて、このような歌を作ってみました。

織田が()り 羽柴(かも)せし 天下酒すわりしままに 飲むは徳川

どうでしょうか。打ち首にはなりたくありませんが……。

杜氏の信長については、実は酒がからきし弱かったと、前章で取り上げました。 酒宴で酒が飲めぬいら立ちもきっとあったのでしょう。突然に怒り出し愉快に酒を酌み交わす家臣を打擲したという信長は、酔っ払って大暴れをする酒飲みより始末におえませんね。

柴田勝家、丹羽長秀らの織田家重臣たちも、ただ手をこまねいて信長の勘気が、矛先を変えて自分に及ばぬよう知らぬふりを決め込むしかありませんでした。

「まあまあ、お館様、お平にしゃぁ~せ。明智殿が仰せのこと、なかなかにもっともでにゃーも」

あえて信長に足蹴にされるようなことをしゃあしゃあと言って出たのは、醸造人秀吉ではなかったでしょうか。信長の気質を知り尽くしていたばかりでなく、下賤の出である自分なら信長にいかように打擲されようと誰も何も思わない、むしろ愉快がる。台無しになってしまった酒宴を取り繕うことができるのは織田家中でこの秀吉ひとりと、自覚していた節があります。

さらには明智ばかりでなく柴田、丹羽らの重臣たちにも恩を売ることができるという計算も、信長が怒り出した瞬間に閃いていたかもしれません。まさに用意周到な醸造人といえましょう。

さてその秀吉にまつわる逸話は数限りなくありますが、酒に関することとなるとなかなか資料も限られるようですから、秀吉もまた酒はそれほど強くなかったと断じてよさそうです。

しかし、酒席の場は決して嫌いではなかったに違いありません。酒を飲んでこそ人は本性をさらけ出すものと心得ていたのでしょうね。人が酒を酌み交わす場こそ戦場であるとの信念が、秀吉を天下人に押し上げたのではないでしょうか。