第一部酒編

卯飲(ぼういん)

会津民謡の「会津磐梯山」では、小原庄助さんは、

「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした」

と歌われています。これは放蕩をかたく戒めるというよりは、そんな身分になってみたいものだという庶民の羨望が多分に見て取れる歌です。……まったく同感ですな。

この「朝酒」ということば、身上をつぶしたという小原庄助さんのたとえもあって、あまり印象の良い響きを持ち合わせていないようですが、これを「卯飲(ぼういん)」と書けば少しばかり違ってくるようです。などと、わかったようなことを言っていますが、そもそも私は「卯飲」なんていうことばを知りませんでした。「暴飲」であれば、しばしば経験して痛い目に遭っておりますからよく承知しておりますが。

漢字学者の阿辻哲次氏は、その著書『遊遊漢字学』(日本経済新聞出版)の中で、中国宗代の詩人陸游(りくゆう)は、官界から身を引いたあと、「晨起復睡眠(あしたに起きまた眠る)」という詩の中で、衰翁卯飲易上面衰翁卯飲すれば面に上りやすしと詠じていると紹介しています。

そもそも「()」は、干支の四番目を意味する文字。干支は動物に当てはめられて数えられたりしますが、「ウサギ」にあたるといえばわかりやすいですね。昔から干支は、時刻を表すのにも使われてきたのもご存じでしょう。「草木も眠る丑三つ時」とは、「(うし)」の刻の三つ時。午前二時半から三時ころを指します。「(とら)」は午前四時。「卯」は午前六時というわけです。もうおわかりですね。「卯飲(ぼういん)」とは、朝の六時から酒を飲むこと。「朝酒」そのもののことを指すのでした。

しかし、庄助さんはどうだったか知りませんが、陸游はあくまで役人をリタイヤしてからのこと。当時の中国の役人は午前六時が出仕時間であったというのですから、陸游にしてみれば、「卯飲」は格別の味わいであったろうと想像できます。

現代のお役人の出勤時間は、概ね午前九時としたものでしょう。当時の中国のお役人はなぜそんなに早くから出仕しなければならなかったかといえば、為政者(皇帝)が早朝に政務をとったからで、「朝廷」ということばもそれに由来すると阿辻先生は教えてくれています。

ほぉ~、そのような由来があったとは知りませんでした。朝廷に出仕する官吏の出勤簿を「卯簿(ぼうぼ)」、登庁して点呼を受けることを「(おう)(ぼう)」というのも耳に新しいことです。う~む、「卯飲」ですか。今度の休みの朝、女房殿に言ってみようかしらん。

「お~い、久しぶりの休みだ。『卯飲』としゃれ込もうと思っているんだが」

なんて。……くわばら、くわばら。「触らぬ神に祟りなし」と言いますからね。あとから面に上った赤ら顔を咎められて、「衰翁」呼ばわりされてはたまりません。

憶良らは今は罷らむ

日本では、酒は「お神酒(みき)」と呼ばれているくらいですから、わが国の酒の歴史を遡ればそれこそ神代の昔からということになりましょう。古来より歌にも数多く詠まれています。わが国最古の歌集「万葉集」から拾ってみますと、大伴旅人はこのように詠んでいます。

第340番

古の 七の賢しき人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし

第341番

賢しみと 物言ふよりは酒飲みて 酔ひ泣きするし 優りたるらし

山上憶良は、自らの名を歌に詠み込んでいますね。

第337番

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も ()を待つらむそ

公共放送局の大河ドラマの中でもとりわけ人気が高かった戦国武将・明智光秀を扱ったシリーズの第三十六回。光秀が万葉の歌人の中で誰が一番の詠み人かと、問われるシーンが出てまいりました。時の帝・正親町天皇の内意を受けた側近の三条西実澄が、光秀の人格を探ろうとして問うたシーンです。

光秀は、山上憶良であると躊躇なく答えています。その理由はとさらに問われて、憶良はこの国と帝の、そしてさらには己の家族の平和と安寧を願った歌を数多く残した詠み人だからと答えておりました。仕事上での付き合いの酒席の場で、さんざんに酒を無理強いされたということは誰だって経験がおありでしょう。……早く家へ帰って、妻や子の顔が見たい。私も同様な理由で山上憶良のこの歌が一番好きです。