⑤力織機の発明。カートライト(一七四三~一八二三年)は、一七八五年に力織機の特許を取り、その後も次々と改良を重ね、操作しやすい力織機に仕上げていきました。一七八九年、ちょうどワットの蒸気機関が実用化されたので、この力織機は、初めから蒸気機関を動力にでき、生産速度は非常に高く普及も速く、力織機の普及台数は一八一三年二四〇〇台、一八二〇年一万四〇〇〇台、一八二九年五万五〇〇〇台、一八三三年一〇万台となりました。

このように産業革命期の工業化を主導したのは綿織物工業でした。そして、この間に後で述べますようにジェームズ・ワットが蒸気機関の往復運動を回転運動に転換する技術をつくり出し(一七八一年)、それがミュール紡績機や力織機に取りつけられるようになりますと(一七九〇年ごろから)、綿織物工業は渓流沿いの山間部から立地条件のよい平野部へと進出しました。

イングランド北東部のマンチェスターを中心とするランカシャー地方が綿織物工業王国に成長し、一八三三年のランカシャーには一五一の綿織物工場があり、その大半は雇用者二〇〇人以下の規模でしたが、一〇〇〇人を超えるものも七つありました。

結果的に一九世紀がはじまるころには、技術革新(産業革命)によって、イギリスの綿織物製品がインド産より遙かにコストが安くなり(機械生産は人の数百倍の効率だったので勝負にならなくなりました)、インドは製品としてのキャラコではなく、原料の綿花をプランテーションで栽培してマンチェスターに供給する立場に変わってしまいました。

機械化が綿業でできたなら、毛織物でできないはずはない、毛織物でできれば…以下、右へならえとなって機械化・低コスト化が次々と連鎖反応的に広がっていったのがイギリス産業革命でした。

さて、新興の綿織物工業は、国内産の羊毛という供給に限度のある毛織物工業とはちがって、一八世紀の後半には西インド諸島(カリブ海域にある群島)の、一九世紀にはアメリカ南部のプランテーションから奴隷制生産による安い綿花を、ほとんど無制限に輸入することができました。

また、工場制の大量生産によってコストを大幅に切り下げることができたイギリス綿製品は、その軽さと通気性に優れていたので寒帯から熱帯にいたる世界全体で広大な需要を見込むことができました。イギリスの綿織物工業は、すぐれた輸出産業の性格を与えられ、一八四〇年代にはその全生産額の半分以上を海外に輸出しました。こうして綿織物工業は、以後、産業革命の主導部門として工業化の牽引車となったのです。