一九九七年 ナオミ@社員寮

のちに子どもが生まれてもナオミには理解できなかった。

こんなに大事な子に、なんで対価を求める?

人間関係は全部、ギブ・アンド・テイク。「たった一つの例外、親から子への愛」と言った親友をナオミは羨んだ。ギブ・アンド・ギブ。無償の愛。何も求めず、与える。そんな親の元に生まれた親友が眩しかった。

出て行ったパパは優しかった。時々、秘密で会いに来てくれた。だから助けてくれるはず。電話をかけた。

幼い声が「トトォ、デンワァ」と答えた。その愛らしい、つたない声の向こう、穏やかな女性の声が「誰ってぇ?」と話しかける。ナオミは電話を切った。

ナオミは祖母に頼ることにした。特急から在来線を乗り継いだ。到着した駅には人の姿が見えない。強い日差しの中で巨大なヒマワリの花が何本も列をなし、力強くすっくと立っている。バス停に向かう力を与えられた。妊娠は体力をかなり奪う。

コミュニティバス、と表示されている。

車窓の外、遠くに見えていた山々が輪郭を鮮やかにする。山並みの緑はグラデーションになっている。手前の山は樹々の色、その向こうは濃い緑、その向こうは大気に隔てられた薄い緑、もっと向こうは大気に霞むあおみどり。そして水色に見える山並みが遠くに広がる。

バスを降りてしばらく歩く。どの敷地にも塀や門はない。大きな引き戸の窓が開け放たれた古い家々。

世の中にドロボウがいるとは微塵も思わないですむ世界がここにはある。どの家にも南側に間口の広い玄関があり、その横から長い縁側が始まる。南側は柱だけで壁はない。外側の柱と柱の間には昔、雨戸(あまど)、と呼ばれる木製の引き戸があった。ガラスとアルミサッシだけになった現代でも全部、開け放たれている。縁側の内にある紙と木でできた、しょうじやふすまも。

おとぎ話の世界。どの庭にもミカンやハッサク、レモン、ユズの木が植えられている。右から数えて六軒目、これだ、覚えている。あのときのまま。深呼吸をして心を整える。

サザンカの低い生垣に囲まれた敷地に勇気をかき集め、入った。そういえば冬に訪れたとき、ぎっしりと白い花が咲いていた。おじいちゃんのお葬式だった。

おじいちゃんは言ってた。

「ひどい環境で育ったら他の人にもひどいことをする、ってゆうけど」

「そう? 知らんかった。そんなことないと思うけど」

「ラジオで偉い人たちがそうゆうんやん。でもな、じいちゃんは、ナオミとおんなじだよ。意地悪されたんなら、敢えて人には、自分がされて嫌なことは人にはせん。人のふり見て我がふり直せ、だよ。意地悪なヤツから学ぶんや。で、自分の成長につなげるんや。そっちタイプの方が多いと思うよ。人間は誰でも嫌な思いするんや。誰でも」

「うん。イジワルは必ず、いるよね、おじいちゃん」

「そうやん。なくそうって、みんなで言っても絶対に、おらんくならん」

おじいちゃんは大好きだった。なんでいい人って先に逝っちゃうんだろ。

この家には滅多に連れられて行かなかった。けど、たまに行けば必ず、おばあちゃんは「年寄りを大切にしなさい」って繰り返した。

孫は祖父母を助けるもので、孫を祖父母が助けるものじゃない。わかってる。わかってるけど、助けて。