前編
「あなた、風が変わったわ。服を着て。帰りにヒョナに何か買って帰りましょう。いけない?」
「奥様の仰せの通りに」
弘はふざけて見せた。
元(芳蔵)は再び益田の地を踏むことができた。弘と同じく久し振りに飯浦の海を望む。
『今ごろはタンコロ(沖キス)や剣先が美味しいじゃろう』
キクの本家、安治の家へ向かうが少し足が重く感じた。郭さんからの連絡でわしの生存は確認していると思うが、この歳で海を渡るとは思っていないはずだ。ならばキクや武がいる間はとても世話をしてもろうたことじゃろうし、兄さんのことじゃから家やお墓を守ってくれとるに違いない。ちゃんとお礼を言って心を尽くさないといけない。
安治は今日も庭の草引きに余念がない。芳蔵はゆるやかに母屋へ向かう坂道を上り、庭にさしかかる。砂利を踏んだところで安治が顔を上げた。驚いている。入れ歯は落とさないにしても。
「兄さん。久し振りじゃ。長い事済まんことです」
「芳蔵さんじゃのう? よう御無事で……。聞いておるよ。苦労されたのう」
老いてしまった二人は互いに手を取り、肩からうでを撫でおろしながら涙にむせんだ。義兄弟ではあるが、生きて再び会えたことの喜びと、変わらぬ互いの尊敬の念で、心の底から胸が高鳴ったのだった。郭からの手紙で芳蔵の帰国は難しいと理解していたので、余計に驚いたのだった。
家の中へ通され、安治の妻と三人でお茶をしながら長い間の積もる話をした。夕食の後も健治を含めて続きを語り合ったのだった。それが尽きることはなかった。弘が生存していることに驚き、喜びは隠せない。慌てることはない。必ず会うことはできるはずだ。芳蔵は床の中でキクと武に詫びながら弘の顔を思い出していた。
翌朝、芳蔵は一人で昔住んでいた母屋へ向かって、線香と花を提げ新緑の野山を歩いた。
『そうか。弘はやはり生きていたか。キクや許せよ。お前ばかりに苦労をかけてしもうた。わしは武にも会うことができたんじゃ。ありがとうな。お前のお陰かもしれんのう』と、墓前で独り言をつぶやきながら線香に火をつけ、花を飾った。
小高い裏山へ登り、その先にある国を想い見る。二十五年の歳月に両手を合わせた。一人では生きることができない。生まれたこの家で暮らすことは可能だが気力がない。やはり韓国へ帰ろう。ヘリの元へ。弘に会うために。
弘はいずれここへ戻ってくるかもしれないが、それはそれで良いとしよう。わしには先がない。住み慣れたプサンに骨を埋めるのだ。あいつは郭さんと連絡を取っているころだ。わしが日本へ向かって、いずれここへ帰ることは聞いているはずだから、武やサンマンの件が落ち着けばわしを待っていてくれるに違いない。
頼む! 待っていてくれ。