第一章 伊都国と日向神話
3.「秦王国」から南九州に移住する秦の民
ここで一度、論点を整理してみよう。
・秦王国があった豊国北部の戸籍(大宝二年)から、この地方における秦氏の人口構成比は約85%に達する。まさに秦氏の王国であった
・秦氏に属するそれらの人々は、「秦部」や「勝」の身分=「秦の民」であった
・「秦の民」の戸籍は「雜戸」であり、差別される人々であった
・彼らは、金属高熱処理技術などの金属加工を行った
・彼らは、金属加工が必要な場所に行って仕事をする=非定住者であったことから、差別を受けていた
香春岳の麓には、現在でも「採銅所」という駅名(日田彦山線)があるが、銅が採れた豊国(秦王国)の住民は、多くが秦人であり、秦氏の私有民「秦の民」であった。彼らが豊国から日向国へ、また日向から分国した大隅や薩摩に移住した(させられた)人たちである。
「分国」のことは、『続日本紀』の和銅六年夏四月三日に、また「移住」のことは、同七年三月十五日の記事に載っている。
日向(ひゅうが)国から肝坏(きもつき)・贈於(そお) ・大隅(おおすみ)・姶羅(あいら)(「ら」は偏が衣+旁が羅)の四郡を割いて、初めて大隅国を設けた。
隼人(はやと)(大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)国の住人)は道理に暗く荒々しく、法令にも従わない。よって豊前(ぶぜん)国の民二百戸を移住させて、統治に服するよう勧め導かせるようにした。
二百戸の概算人数をはじくと、残存する当時の豊前国戸籍では、平均一戸当たりの家族数は約二十五人であるから、200戸×@25人=5000人という大部隊になる。その目的は政権に服さない(法令=大宝律令などに従わない)隼人を、教導するためであった。
「秦の民」が、異文化の人々を導き教える方法に長けていたから移住させた、とも読み取れる。あるいは秦の民が、徴税能力に秀でた人たちであったのかもしれない。
当時のヤマト政権に服さないのは、北では蝦夷、南では熊襲(くまそ)であった。「熊襲」はいまの熊本県南部球磨川(くまがわ)流域と、鹿児島県曽於(そお)市の一帯に住んだ人々というイメージであるが、考え方や行動面で、政権側とは文化的な隔たりが大き過ぎて、相互理解ができなかっただけだと思われる。
北の蝦夷に直接向かうのは那須国や常陸国の秦氏であり、南の熊襲を防御する役割は、やはり秦氏の私有民、秦人たちであった。彼らが金属製品を扱い、武器を製作し、結果として武勇に優れた民=武人集団であったからである。
さらに信仰的にも強い絆で結ばれ、集団としての意思決定をする一族であった。このような技術的・行動的側面をもつが故に、ヤマト政権としては最北端および最南端に、秦氏の一族を移住させたのである。
最南端の熊襲(球磨(くま)+ 曽於(そお)のうち、政権との相互理解が進んだ人たちが「隼人 (はやと)」と呼ばれて、朝廷に協力的になった。
一方でその後も打ち解けなかった人々は、依然として「熊襲」のままであった。だから熊襲は、打倒されるべき異文化人であり続けた。不服従の熊襲はその昔、ヤマトタケルの説話にも登場して神話に勇名を残しているが、結局は討ち取られてしまった。