第一章 伊都国と日向神話
3.「秦王国」から南九州に移住する秦の民
秦氏のリーダーたちは、ときの政治権力と接点をもち、自らの技術的優位性を駆使して、池・橋・河川・造都などのインフラ整備を請け負い、継続的な収入源を得る。そのため秦氏としては、多くの部民(部曲)を雇用できる余力ができる。氏子が自動的に「秦の民」「秦人」になってくれれば、秦氏と秦の民の双方に好都合である。
というのも、秦氏にとっては若い労働力を確保できるし、秦の民は安定的な収入が得られるからである。以上のような経済合理的な推理によって、秦王国における秦氏の人口構成比は、他姓を圧倒的に引き離したのである。
ただ氏子としての秦の民が、熱心な神道の信者になるかどうかは、保証の限りではない。現代の我々も、ほとんど無意識的に〇〇神社の「氏子」になっているのだが、誰もそんな風習に疑問を懐かないだけの話である。
秦の民は、差別を受ける人々であった。奈良時代の戸籍では、農民など平民が「戸」と表示されるのに対し、差別される人たちは「雑戸」となっていた。『続日本紀』(宇治谷孟/講談社学術文庫・1992年)から、天平勝宝四年(七五二)二月二十一日の記事である。
京・畿内の諸国の鉄工・銅工・金作(かねつくり)・甲作(よろいつくり)・弓削(ゆげ)・矢作(やはぎ)・桙削(ほこつくり)・鞍作(くらつくり)・鞆張(ともはり)などの雑戸(ざつこ)は、天平十六年二月十三日の詔の趣旨によって、改姓を許すという恩典をうけたが、本業を免除されたのではない。よって本籍地に照会して、天平十五年以前の戸籍や計帳をたずね検(しら)べて役種ごとに徴発し、旧来のとおりに役使させる。
天平十六年(七四四)の詔(みことのり)によって、雑戸から平民になることを許されたが、元の本業から離れても良いという趣旨ではない。旧来の職種のとおりに仕事させよ、と命じている。
旧来の職種とは、卑賤な職種とされた上記の金属加工や武器製作の類である。そのような職種は元のままに、仕事内容を変更してはならないという通達である。
秦の民(秦人)は、ここに載る鉄工・銅工・金作に従事する人たちであったが、身分的には「雑戸」である。鉄や銅を加工し、また金(また水銀)を扱う。
これら鍛冶集団が、差別される側の「雜戸」なのである。しかし金色に輝く大仏の造立は、まぎれもなくこれら「雜戸」=「秦人」の技術的貢献がなければ不可能であった。『続秦氏の研究』によって、大仏造立に関係する功労的人事として、秦人に改姓があったことを知った。
鉄工・銅工・金作などの「手伎」の人々が「雑戸」だが、この身分は「人の恥づる所」だから、解放したとあるが、『続日本紀』天平二十年(七四八)五月乙丑条に、「右大史正六位上秦老ら一千二百餘烟に伊美吉(いみき)の姓を賜ふ」とある。「烟」は「戸」のことだから、七千五十三戸の秦人(秦の民)は欽明朝(五四〇年〜五七一年)から二百年も後だから、秦人の戸数はもっと多くなっていたであろう。その中の一千二百余戸の戸に属す人々が、雑戸から解放されたのは、彼ら鉄工・銅工・金工の秦人らが東大寺の大仏造立に貢献したからだが、彼らは主に銅工・金工と水銀を扱う人々である。