第一章 神々は伊勢を目指す
5.古風土記の逸文
天日別命と珍彦
天日別命が大倭耳梨村に宅地を賜わったことを勘案すると、彼は奈良盆地の管理者(国造)になったと思われる。すると神武東征の瀬戸内海において、天皇の水先案内の役目を買って出た「珍彦」がダブってくる。珍彦はこの導きによって、東征後の褒賞人事として倭国造に任命された。つまりは、「倭直部が始祖」となったのである。『紀』における該当部分。「艇に乗りて」「速吸之門(関門海峡?)」に現れた彼が、神武の先導を務める場面である。
”名をば珍彦と曰す。(中略)皇舟に索き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦とす。椎、此をば辞毗と云ふ。 此即ち倭直部が始祖なり。”
これが『記』では「倭國造等の祖」となっているが、同じ意味である。従って珍彦は椎根津彦であり、倭直部の始祖(倭国造の祖)なのである。だから天日別(=珍彦)の神武軍参加は、瀬戸内水軍を率いて、かつ水先案内を兼ねたものであった。
天日別命自身は、天御中主尊の十二世孫であるから、ユダヤ系である。神武東征(国譲り戦)への従軍は、天皇が最初に出発した伊都国の日向からの参戦ではなく、途中の瀬戸内海のあたりから参加したのである。
このような解釈に従えばゆづき 、天日別命は珍彦という結論になる。UDU―HIKO→(Y)UDU→YUDU→弓月=秦氏となるが、しかし、ますますヤヤコシイ話になってくる。登場人物をまとめると次の通りとなる。