西郷隆盛の妻
ある日、光三は教育担当者たちと市内の小学校を視察したあと、秘書課長だけを供にして県庁近くの南洲神社に立ち寄った。城山と呼ばれる高台に建つ神社には南洲翁こと西郷隆盛が祀られ、隣地には西南戦争に従軍した戦死者が眠る南洲墓地がある。
住宅地の間の道路に面して商店や旅館などが建ち並ぶ鹿児島市内と桜島を眺め渡せる神社の石段を昇りながら、光三は西郷隆盛が奄美大島に流されていた時期があったのを思い出した。一段下に従っている秘書課長を振り向いて声をかける。
「西郷さんが奄美に流されたのは、たしか安政の大獄のあとだったな?」
「はい。大獄後の政局で幕府から追及されそうになったので、当時の島津のお殿さまから潜居を命ぜられたと伝わっております」地元育ちの秘書課長は、滑らかに答えた。
「奄美じゃ、農民の娘を島妻にしていたそうだが」
秘書課長は、農民の娘と一般に思われているが、実は誤りだ言う。
「島の郷士格である龍一族の子女と一緒になったのが史実です。愛子という名でした。愛加那さんと呼ばれています」
西郷隆盛の島妻は、島の名家の出だったのか。秘書課長がつづけた。
「西郷どんは、すぐに薩摩へ召喚されたんですが、愛加那さんと島で授かった子供さんたちは残されてしまいました。気の毒な話です」
神社で礼拝をすませた光三は、昔の伊豆諸島などでも、流されてきた男たちを現地妻として支えながら、正式の妻になれないまま残されてしまった女性が多くいたと、島の蘊蓄を傾けた。秘書課長は、すでに光三の島への強い関心を承知している。
「末永君、奄美に渡った経験は?」
「いえ、ございません。なんせ遠いところですから。一度はと思っておりますが」
「それじゃあ、本官と一緒に行こう。なるべく早く奄美の地を踏みたい。前にも申したが、考えておいてくれな」