7
過去
夕暮れ時だった。ヒョンソクは自転車から降り、壁に自転車をもたせかけて、自宅の門へ向かった。彼は林のどこかから聞こえてくる声を耳にした。
「こんにちは、ヒョンソクさん」
「ヨンミ?」
「ええ、そうよ……久しぶり」
「ああそうだね、しばらくぶりだね、ヨンミ」
ヒョンソクは彼女にまた会えて嬉しかったが、父に見られたらという恐れから、彼女の近くに行くのを少し躊躇っていた。彼は心配そうにあたりを見回してから、彼女に少し近づいた。
「どうしたの? もう遅い時間なのに」
ヨンミは彼に、持っていたものを手渡した。
「これをあなたにと思って。あなたのために手に入れたんだから。〈バランコ・ノ・サンバ(Balanco no Samba)〉よ!」
「ほんとうに?」彼の顔が明るくなった。
「それって、スタン・ゲッツ(Stan Getz)〔ジャズのサックス奏者〕のアルバム、『ビッグ・バンド・ボサ・ノヴァ(Big Band Bossa Nova)』〔スタン・ゲッツ(Stan Getz,1962)〕の?」
「そうよ。それに、『インターモデュレーション(Intermodulation)』〔ビル・エヴァンス&ジム・ホール(Bill Evans & Jim Hall, 1966) 〕と『アンダーカレント(Undercurrent)』〔ビル・エヴァンス&ジム・ホール(Bill Evans & Jim Hall, 1962) 〕もあるわ。あなたはずっと、〈アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン(I’ve Got You Under My Skin)〉〔コール・ポーター(Cole Porter,1936)〕を探していたでしょう。その曲がアルバム『インターモデュレーション』に入っているのを見つけたの」
ヒョンソクの目は驚きで大きく見開かれた。
「どうやって探し出したの?」
「日本に住んでいる親戚から手に入れたの。それから、マルコス・ヴァーリ(Marcos Valle)の曲〈サンバ・ヂ・ヴェラォン(Samba De Verao)〉〔サマー・サンバの名でも知られている。(Summer Samba, 1964) 〕は、韓国ではほんとうに入手困難だけど、来週届く予定よ」
ヒョンソクは大喜びだった。
ヨンミは肩にかけていた鞄を下ろして何かを取り出し、それをヒョンソクに渡して言った。
「先月、ピアノ塾でこの楽譜を習っていたの」
ヒョンソクは楽譜を開いた。彼は驚いた顔で彼女を見つめた。 楽譜は、彼女の小さくて、綺麗で、きちんとした手書きの文字で書かれていた。彼はありがたくて言葉も出てこなかった。ヨンミは彼がとても感動していることを見て取った。
「この楽譜を書き起こしている時に考えていたの」彼女は言った。
「これはあなたには必要ないかもしれない、あなたはピアノを弾くチャンスがないかもしれないって。でも、とにかく、あなたのために書きたかったの」
ヒョンソクは彼女をじっと見つめた。彼女はまた鞄の中を覗き込んで、何かを探していた。
「それから、コーヒーを持ってきたわ。これ、あなたの好きなコーヒーよね。大きいサイズがなかったから、小さいサイズを買ったの」
彼は身じろぎもしなかった。
「いらないの? あなたのものよ」
彼女は彼に受け取らせようとした。ヒョンソクは、これ以上プレゼントをもらうのは気が引けた。
「ジャズフェスティバルがあるって話、聞いた?」彼女が尋ねた。
「あのね、迷ったんだけどこれも持ってきたの。チケット四枚。ヒョンソクさんも見に来られたらいいなと思って。お父さまがだめだとおっしゃるかもしれないけど……。でも私も出演するから来てくれたら嬉しいわ」
ヒョンソクは彼女に圧倒されたまま何も言うことができなかった。彼は胸がいっぱいだった。ヨンミは彼を見つめると彼の手を取り、チケットを彼の手のひらに押しつけて言った。