最善は生まれ出でぬこと
清美の熱はまるまる3日間下がらなかった。母親の道子が階下で清美の名前を呼び続けている。しかし、清美は高熱のため動けないでいると、道子が清美の部屋までやって来た。
「何度呼ばせるんだい。さっさと降りてきて夕飯の支度をしなさいよ」
「まだ熱があって、動けないのよ」
「いつまでかかっているんだ。ヤクザな体をしおって」
と罵りながら、清美が寝ている枕元に座ると、隣の夫人のことで愚痴り始めた。
「まあ、聞いておくれよ。本当にあの人はおしゃべりで、いつも人様の噂を喋り歩いているんだよ。ウチの家のことだって良いようには言わないさ。余所の人から耳に入ってくるんだがね、言うに事欠いて、私のことを自分と同じぐらいおしゃべりだって言っているんだそうよ。冗談じゃない! 誰があんなおしゃべり女と同じに出来るもんか。ええ、そうだろう?」
「……」
「親が話しているんだ、どうして返事をしないんだ」と道子は、清美に怒りの矛先を向けてきた。
「声を出すのも辛いくらいなの」
「声を出すのも辛い? そんなの、変じゃないか」
「病気で熱があるのだから、変で、当たり前でしょう」と、苦しい息の下、清美が説明すると、母の道子は一瞬キョトンとしたが、何事も無かったように、またワーワーと愚痴を言い続けた。
(自分が、ちょっと調子が悪い、風邪を引いたとなれば、私に病人食を作らせ、つきっきりで看病させ、1時間ほども全身マッサージまでさせるのに。私が病気になったら、どうしてこんなに邪険な態度しか取れないのだろう。お母さんは、自分をいつも優しく看病してくれている人を大切にすることが出来ないのだ。私が死んだ方がお母さんの為になるんじゃないだろうか。少しは、反省しないかな? ……生きていて良いことと嫌なことを比べたら、嫌なことの方がはるかに多いわ。やっぱり、最善は生まれ出でぬことかぁ)
清美は横になりながら本気で自殺の方法をあれこれ考え始めた。清美の人生は、溜息の毎日なのだ。それも深い、深い溜息なのだ。これはいけない、憂鬱が病的なものにまでなってきているのだ。
清美の置かれている状況には、子供には耐えがたいものがある。学友との交際を一切禁止されていたり、家庭内に母親の虐待的暴走を止める者がいなかったり、年齢に相応しくない家事の負担を過度に要求されていたり、母親の愚痴の聞き役としてゴミ箱扱いされており、そして、何と言っても、こういった清美の悩みを分かっている人も、相談する人もいないという極度の孤独がある。
毎日、清美はこの孤独に耐えているのである。逃げ出したくなっても不思議はないだろう。