壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事
(4)
屋台を曳いて、朝市へとくり出す毎日がはじまった。
夜明け前、飛蝗(バッタ)少年が豕の骨や小麦を挽いた粉をはこんで来る。わざわざ畜舎まで行く手間ははぶけるが、
羊七(ヤンチー)に会うこともない。
「徐繍(シュイシウ)は、どうしたのだ?」
無言。
「この肉類は、羊七(ヤンチー)のところからはこんで来たのか?」
無言。
「そなたらは、口がきけないのか?」
無言。
しゃべれない子供をえらんで使っているのか、話せるけれども、一言も話してはならぬと厳命されているの
か。
――口を割らせてやろうか。
いや、だめだ。そんなことをしたら、彼らは管姨(クァンイー)か、段惇敬(トゥアンドゥンジン)に言いつけるだろう。おそろしいことにつながりそうな予感がする。
私はぐらぐら沸きたった湯の中へ、豕の骨や野菜をほうり込みながら、趙大哥(チャオターコウ)や老魏(ラオウェイ)の言葉を憶い出していた。
――そんな反抗心は捨てろ。捨てなければ、宮中でお仕えなど、できはしない。
――自分を殺すのだ。殺して、殺して、日々の生を拾うのだ。
――現状だけを見てふさぎ込むなよ、もっと長い目でみて、焦らず、くさらず働け。いつか、きっといいことがある。考えないようにしよう。
月の満ち欠けが一巡し、重労働もこなせるようになって来たころ、湯祥恩(タンシィアンエン)によび止められた。
「稼業には、慣れたか」
「はい」
「帳簿も早いな」
「おそれ入ります」
「たのみがある。これを見てくれ」
一巻の帳簿を手渡された。
「肉の出入りを記した、ここ一年の記録だ」
「拝見します」
帳簿には、日付と、『豕(ぶた)一』『羊(ひつじ)二』『鶏(とり)五』……といった文字と、それを売買した金額が書き込まれていた。
しかし、代金の合計が、ところどころ合っていない。
「麵売りの帳簿は、そなたにまかせておけば、まちがいないと思う。だが、肉の帳簿は、どうもいけない。羊七(ヤンチー)には、きちんとつけるように言ってあるのだが、あの男はどうも、そろばん勘定となると、陸(おか)にあがった河童(かっぱ)のようだ」
「でも、羊七(ヤンチー)は、それで永年やって来たんじゃないんですか?」
湯祥恩(タンシィアンエン)は、虚を突かれたような顔をした。
「そうではない。先月までは、あの男といっしょに働いていた奴がいて、その者が帳簿をつけていたのだ。でも、やめてしまった。そこでだ、おまえは計算に長けていたろう」
「ええ、まあ」
私の興味は、計算そのものではなく、算術のむこうにある神秘というか、摩訶不思議なる霊妙にあるのであるが、世間は、そんなものにはまるで関心を示さず、計算が正しくできてさえいればよいのである。よほどの場合をのぞいては、私も、その風潮にあらがわなかった。
「今ここで、まちがいをなおしてやってくれぬか。おまえなら大した時間はかからんだろう。商家として、毎日の出納は、かならず記録しておかねばならん。豕なん斤、鶏なん羽、金額、そして小計とな」
「じゃ、これからは私が、羊七(ヤンチー)のところに出向いて、肉の帳簿もつけましょうか?」
しかし、湯祥恩(タンシィアンエン)は、きっぱりと言った。
「その必要はない。いまここで計算をしなおして、正しい数字を書き入れることだ」
私は、筆を片手に、頁を一枚一枚めくっていった。計算自体はただの四則演算だから、どうということもない。しかし、ある箇所にいたって、思わず目を瞠(みは)った。
『虎一』銀十五両。
『象一』銀三十両。
虎に……象?
そんな珍獣の肉をさばいたのか?
あの羊七(ヤンチー)が?
そんな肉を使う料理人がいるとは……いや、それより前に、どうやってつかまえたのだろう? 『雀一』銀五十両、という記載にもおどろいた。
象より、雀のほうが高いのか?
さらには『猿をつぶす』という書き入れもあった。