第一章
昨夜卵が夢に現れた。卵が聖母マリアになっていた。あのスクッと立っているのではなくゴロンと横になっていて、そこにたくさんの人がお参りしていた。皆がマリア様と言っていた。卵のマリアのオーラは半端ないもので、マリアの卵は光り輝いていた。
起きて考えたことは私は卵を汚れのないものとして尊敬しているのか? ということで、卵を冷蔵庫から出して、眺めて考えてみた。
だから壊せないのか? しかし何度卵を見ても尊敬心などは湧いてこなかった。ただ打ち付けることができない。殻が割れるということに私が堪えられない。クリニックに言って夢の話をしたら、殻を壊すことに堪えられない他、何か他に堪えられないものはないのかと聞かれた。
そんなものは山ほどある。母が亡くなったことは堪え難かった。父がいないことも、私が西洋人のような顔をしていることも堪え難い。ありすぎて卵の殻どころではないのだ。医者は「でもそれらには堪えて、卵の殻を壊すのだけは堪えられん、のですよね。あんな壊れやすいものに」と言う。
なるほど。卵以外に薄皮のものはあるのか。風船はどうだろう。帰りに風船を買って試してみようと、思った。風船は卵ほどではなかったが、壊すのは容易ではなく、針を刺して壊した。卵に針を刺して壊すことは不可能だから、針は卵には役立たない。それにしても針恐怖症でなくて良かったと、思った。そういう人もいるのだ。例の有名な芸術家の草間彌生さんがそうだ。
他に丸くて壊せそうもないものってあるだろうか? 考えても思いつかない。思いつかないまま眠ってしまった朝の3時頃だろうか。携帯が鳴った。見るとアル中の磯部さんだ。出てみると
「ごめんね。無性に酒が飲みたくて。そんな時はいつでも電話して、って言ってたからお言葉に甘えて」
「いいわよ。で、どうするの? 買いに行ったらだめだよ。お茶でも淹れたら?」
「水飲んでんだけど、収まりそうもなくって」
「明日仕事ないから今から行こうか?」
「いや、いいよ。夜歩きは危険だ。僕が行くよ」
私は慌てて顔を洗い(服を着たまま寝てた)、歯を磨いた。ドアベルが鳴り、ほとんど面識のない磯部さんが立っていた。途中で摘んできたという、夜目にも白いクチナシの花をひと挿し、助かる! と、差し出した。
クチナシの花は一輪なのに匂いが部屋を埋めた。その花の咲いていた塀際に自動販売機があって、最初はそれに向かってフラフラ歩いたらしい。我が家から歩いて15分くらいのところにある。明け方までお茶を飲みながら話して、彼は帰っていった。卵の殻を割りたいときはいつでも電話してくれと言った。