4 米軍に爆撃されたわが家の跡

一年半の疎開から帰って、赤松小学校に通うようになったのは、昭和二十一(1946)年の春からであった。懐かしい千束の家は焼夷弾ですっかりやられ、北千束の坂上から眺めると一面焼け野原で、遠く桜山の方まで見渡せた。不思議な感じがした。

煎餅屋の阿川君の家跡、一緒に遊んだ可愛かった松井久美子ちゃんの家跡などに、それぞれの家の境界線を示す大谷石だけが残っていた。探してもあの頃の幼い遊び友達はそこには居なかった。

赤松小学校の授業が終わると一目散に僕の家跡へ行ってみた。大谷石の門を入る時見てはいけないもの、怖いもの、懐かしいものを覗くような気がして胸がどきどきした。

門の内側に立つと、僕の家は無くなっていた。部屋と部屋の囲いを示す土台の石が、家の構造を鮮明に思い起こさせてくれた。住んでいた頃に比べ、小さく思えた。

生徒さんが集まっていたピアノの部屋、藤棚と鯉のぼり竿の見えた座敷、井戸付きの台所、よく窓から立小便をした居間、待てども最後まで電話が設置されなかった電話室、貯蔵食料を隠れて食べた納戸、柔道畳が敷かれた子供部屋、亡母喜与子の写真が飾ってあった奥の間、女中部屋、庭の防空壕など、ひとつひとつの部屋には沢山の思い出があり、懐かしい人の顔、賑やかだった戦前の情景などが目に浮かんできた。

ピアノの部屋跡にはピアノの鍵盤だけがそのまま繋がって地面に落ちていた。黒鍵盤よりも白鍵盤が茶色の土の上で綺麗に見えた。いくらこれらを綺麗に並べてみても、美しいピアノの音を出すことは出来なかった。

現在も内乱やテロ、専制国家などで、多くの市民が家を破壊され、難民として生まれ育った土地を離れ、不自由な寂しい思いをしている人々が多い。誰にも故郷があり、肉親や縁故者が居る。二十一世紀になっても、このような理不尽な行為が、人々を抑圧している。

筆者が味わった悲しい思い出は、今のそれに比べれば小さいと思う。しかし負のダメージから立ち直るには、長い年月を要することを国際社会は知り対処すべきである。