はじめに
女から生まれ、女に愛され、女を愛し、女に囲まれ死んでいく、有馬文左衛門と息子、世之介の馬鹿馬鹿しくも抱腹絶倒の物語。人生は煎じ詰めれば色気と食い気、銭と女。金と女を仇と思い、探し求めて八十五年。自由奔放、ハチャメチャに生き抜いてきた世之介も、色と欲とに別れを告げ、大変身。環境破壊で破滅の淵に立たされた人類を救わんと、身の程もわきまえず、神の御告げを世人に伝えることに。
プロローグ 縁は異なもの味なもの
「あれーぇ、お箸が流れてしもうた。どないしよう」
という、黄色い声が突然、有馬文左衛門の耳に飛び込んでくる。声のする方に目を向けると、川上から箸が流れてくる。文左衛門は冷や素麺をすする箸を休め、すっくと立ち上がり、膝下ほどのせせらぎの中を歩み、箸を拾い上げ、にっこり微笑んで声の主に手渡す。
「お礼を申さな、あきまへんえ」と、花魁に促され、禿と思しき少女は「おおきに」と、鈴をころがすような声で礼を述べ、文左衛門を喜ばせる。文左衛門を見上げるその瞳は、足下を流れる貴船川のせせらぎのように澄んでいる。穢れを知らぬ天女のような乙女が、にっこり微笑む。明眸皓歯、そこはかとなく品のあるたたずまいが、なぜか文左衛門の胸に深く刻み込まれる。
鶴女というこの禿との出会いに、文左衛門は何か運命的なものを感じる。だが、その日を始まりとして以来四十七年、相思相愛の仲になろうとは、神ならぬ身の知る由もない。
夏の京都はめちゃくちゃ暑い。人は動くのも億劫になり、草木も萎れる。京の都は、御所を中心に都大路が碁盤の目のように走っている。盆地の京都、町中はどこへ行っても蒸し暑い。だが、北へ十キロ標高百メートルを上がって貴船まで来ると、気温は町中より十度も下がる。
人々は暑さを逃れ、涼を求めて貴船の里へとやってくる。山間の清流、貴船川は粋人たちにとって納涼天国。ここ貴船の里は、源義経が鞍馬天狗を相手に剣術の腕を磨いたという鞍馬山と、その南に横たわる貴船山に挟まれた山里。人々はせせらぎに足を浸し、涼しさに生気を取り戻す。そして、川魚料理に舌鼓を打つ。文左衛門は、妻の加奈と三人の娘、茜、小百合、楓と共に、一家で夏休みをここ貴船で過ごすのが恒例である。