イタリア諸都市では新しい人材の供給があった
このようにイタリア都市における金融業や新産業の発展は、前述しましたように東西交易とヨーロッパの大陸部を結ぶ要衝の地にあったことばかりではなく、高い教育・文化に基づく新しい人材の供給があったからです(新産業を興すには人材がポイントです)。
都市や商業の発展に対応しうる法律知識の必要から、ユスティニアヌス帝の『ローマ法大全』以来のローマ法の伝統が存続したラヴェンナに近い交通の要衝ボローニャに、一二世紀後半、ローマ法学を勉強しに参集していた学生たちが大学を組織しました。
ボローニャ大学(創立一〇八八年)は世界最古の大学で、のちにダンテ、ペトラルカ、ガリレオ、コペルニクスなども学びました。一三世紀には、イタリアの北部・中部の各地に大学が派生し、多くの人材を供給しました。
新しい産業も新しい技術も結局、新しい人材が生み出すのです。
逆に新しい人材をつくれば、必ず彼らは何か新しいものを生み出します(地域発展には人材育成機能が不可欠であることは今でも変わりません)。商社などの会計記録には、複雑な貨幣計算をするための高度な算術が必要であり、各種の公文書には、実践的なラテン語の能力が必要でした。定着商業(店舗をかまえた商業)には、読み書きと計算の能力が要求されました。
とりわけフィレンツェでは、大量の商業文書が作成され、多角的な取引について詳細な帳簿が記入されました。
商人の間では、帳簿、書簡、公証人文書、訴訟文書などを調べて、家族の記録を覚書として記録する習慣が普及し、やがてそこには個人的な思いも記述されるようになりました(やがてダンテ、ペトラルカ、ボッカチオなどルネサンス文学が起きました)。
このようにイタリアの都市には新しい人材を供給する仕組み、システムができてきていました。
このようなことから、とくにフィレンツェは経済的な面からみれば、資本主義を誕生させることになり、それを文化面からみるとルネサンスという一大文化活動を生み出すことになったのです。
このあとイタリアではルネサンスが起きますが、ルネサンスはイタリアの都市国家で起きるべくして起きたのです。
イタリアはルネサンスになって発展したのではなく、産業・商業都市、つまり、資本主義が起こって発展し、その富でルネサンスが起こったのです。