政権
どうぞこちらへお掛け下さいと汪が空席を指し示し、広い丸テーブルに向かって三人がそれぞれ席を占めると、再び汪が口を切った。
「失礼ですが、閣下はこの場所がどこかおわかりでしょうか?」
穏やかな問いかけに対して、宇垣は少し胸をそらして明快に答えた。
「言うまでもあるまい。永田町の総理官邸の中だよ」
「おっしゃる通り、ここは首相官邸の地下食堂です」
「しかし、わしは今夜は四谷の自宅で眠っていたはずだ。ところが、気がつくと袴をつけた姿で総理官邸の地下の廊下を歩いておった。つまり、わしはいま夢を見ているのだろうか……」
宇垣の疑念は、ますます深まる様子だった。
「それでは説明致します。閣下の身体は、確かにいまご自宅で眠っておられます。一方、その自意識と言いますか、あるいは魂魄と言いますか、そちらのほうは、現在この部屋にこのように実体化しているのです」
ごく当然のことのように汪は告げた。
「それでは、わしの生霊がさ迷い出ているということか。確かにこれは夢ではあるまい。ここにあるものは、どう見ても現実そのものだよ。だが、あんたの説明も納得し難いものだ」
宇垣は言いながら腕を組んで目を閉じたが、ややあって口を開いた。
「まあこれはいくら論じても始まらん。とにかく受け入れるしかなかろう」
言い終えると、両肘をテーブルについて、やや砕けた形に態度を改めた。
「さて汪先生、あんたは一体どういう目的でもって、わしを呼び出したのかね?」
その口調には、どこか面白がっているような気配も含まれていた。
「それでは、閣下に来て頂いた理由を含め、現状を説明致しましょう」
汪兆銘はそのように前置きして語り出した。
「まず、さきほど閣下の言われた生霊という言葉ですが、なかなか適切な表現だと思います。つまり、ここに集った我々は共に生霊です。ボース主席の本体は、まだドイツのベルリンにあって、日本への渡航の準備中です。また、私の本体は南京にいて、南京政府代表の業務を行っています」
「なるほど。それからもう一つ、言葉の問題がある。あんた方は、まことに正確で流暢な日本語を喋っているが、これはどういうことかね」
「ああ。それは、この特殊な時空間に備わっている約束ごとです。実は、私は北京官話を、ボース主席はインド・アーリア語を話しているのですが、それが閣下の耳には日本語として聞えるのです」
「ふーむ、まことに便利なものだな。まあ、それもそうと受けとめるしかあるまい。では本日、ここに集っている目的だが、そのあたりをじっくりと聞かせてもらいたい」
宇垣の言葉には、有無を言わさぬ重さがこもっている。汪とボースは顔を見合わせたが、今度はボースが宇垣に語りかけた。
「本日の午前中ですが、極めて重大なアクシデントが発生しました。閣下はまだご存知ないと思います」
「今日は十八年の四月十八日だが、一体何があったというのかね?」