【前回の記事を読む】義経の奇襲が成功!源氏圧勝の報を受けた法皇の唯一の不満とは

一の谷

一方、平家は一の谷合戦後再び息を吹き返していた。瀬戸内は依然として勢力下にあり、屋島を行宮(あんぐう)地として安徳天皇の御座船を浮かべていた。一の谷沖合を埋めた海上戦力は無傷で健在だったのだ。

頼朝は、都統治に代官として義経を指名し、平家の没官領二十四箇所を与えた。その後、範頼指揮下の鎌倉軍主力を引き上げた。そして帰還した諸将を自ら尋ね労を労った。前述したように、頼朝には宿老と言える家臣はなく、旗揚げ時の盟主から立場が変わっていない。代官として送った弟の範頼・義経の活躍で、その地位が堅固になりつつあることを幸いに足元を固めようとしていた。

範頼は軍監の意のままに従い、勝利軍の総大将を頼朝の思惑通りに勤めあげた。一方、義経は軍監の意見を無視して常法の戦術から外れた指揮で鎌倉軍を大勝利に導いた。義経個人に集約される際立った勝利が、頼朝を悩ませることになった。

都では頼朝の影が薄く、義経だけが突き抜けた評判を得ている。そして、平家討伐はまだ完了していない。平家を絶滅して武家政権を確立するために、義経はまだまだ利用しなければならないだろう。旗揚げ時には想像だにできなかった、親族の救世主が飛び込んできたのだ。しかも、自尊心が強いだけで欲がない。ただ身内を欲して甘えもあり子供のように純粋でもある、こんな好都合な存在は奇跡としか考えられない。

当然ながら策士広元には、義経に対して肉親の情はなく、どのように利用するか考えるだけで楽しくなった。というのは穿(うが)ち過ぎか。

一の谷合戦の戦功調べがあった。どの将兵も自分の功を主張する。当時の手柄とは兜首を幾つ上げたか、一番駈けは誰かという目に見えるもので判定される。全体を見渡さなくてはならない将も軍監でも個人の戦功を主張する。

当然一つの首に複数が名乗りを上げることもあるから、判定が難しい。間違うと恩賞する側が不信と恨みを買う。主観の報告しかないので客観的判断が難しい。そんな時代に義経とその郎党たちは功名争いとは一線を引いていた。何より判定作業の鎌倉にいない。義経には平家を討つこと、つまり仇を討つことが主眼だった。

だが、自分に戦功があったと思うのは自然のことで、都人は知っているし、共に戦った諸将が触れてくれると思っていた。しかし、あの実平、重忠の報告書にさえ義経の名はなかった。戦が終わっても家来扱いされたことが反感を招いたのだ。だが、義経の戦術・危険を物ともしない勇気が勝利を呼び込んだことを頼朝・広元はわかっていた。それゆえ義経を警戒し、報告がないのを幸いとして、賛美することはなかった。

この時、弁慶は鎌倉にいた。降将平重衡を護送してきていたのだ。