【前回の記事を読む】【小説】平和を取り戻した京の都。義経一行が都を治めに赴いたワケは…

一の谷

西国に落ちた平家が勢いを取り戻している、という報告が幾つも届いたが、やがて兵庫の一の谷の海岸に築城を始めた。一の谷は砂浜で幅が狭く、潮が満ちると一騎がやっと通れるほどである。陸側は山が屹立し要害となっている。その東西に細長い陣は、大手門を東方生田の木戸とすると、西方裏手門の一の谷まで十二キロある。かつて清盛が定めた旧都福原はその中にあり、平家は地理に明るい。しかも、その海岸線に沿って千艘もの軍船を浮かべ、掲げる赤旗で水面を染めた。海上から攻めるのはほぼ不可能と言って良かった。

そこに、範頼に率いられた鎌倉軍が都近くに到着した。数三千騎、つまり平家の七分の一の寡兵である。優秀と言われる騎馬隊は広い関東平野ではのこと、狭い砂浜では実力を出せまい。更に鎌倉軍は軍船を持っていない。すなわち海上では無力ということである。

法皇は「平家追討」の院宣を出すことに躊躇した。平家が鎌倉軍を破れば我が身が危うい。平家隆盛の頃に戻るかもしれない。そうなれば、平家追討を命じた法皇の立場はどうなるか。しかし、逆に源氏追討の院宣を出す状況ではない。

法皇は義経を呼び出した。

「院宣は出す、しかし平家は三種の神器を持って都を出た。取り返せるか」

義経の頭にはなかったことだ。今上天皇は三種の神器を引き継ぎ守らなくてはならない。

「そのために、平家と和睦せよ。院使は既に送ってある」

意外な言葉に(いぶか)しむ義経に法皇は続けた。

「和睦の話で平家は戦意を弱め油断するに違いない。そこを討て、そして神器を取り返せ」

後に頼朝が大天狗と評した法皇の策略である。寿永三年(一一八四)一月二十六日、範頼と義経に院宣は下された。義経は頭に神器のことは入れたが、法皇の策略は採らなかった。

堀川館で軍議を開いた。本来範頼の主宰が筋であったが、義経の居住する堀川に集まったことで、義経が主導する形となった。

範頼の指揮下、本体は生田の森から攻め、義経は別働隊で裏手門の一の谷を攻めることになったが、義経は細部を言わず再び別働隊の軍監となった景時を無視した。景時は大軍の平家に対し源氏があまりに寡兵であることから、頼朝に援軍を要請するべきと主張したが、それも無視されていた。激高した景時で軍議は荒れたが、範頼の軍監土肥実平が別働隊に入り景時と交替することで納まった。この時別働隊に実力者畠山重忠、熊谷直実も加わることになった。

義経軍は、播磨の三草山に屯していた平家を蹴散らした後、歴史上有名な鵯越の奇襲で勝利し、平家を海上に追いやった。

総大将の宗盛は讃岐の屋島まで逃げた。血の気が失せ死人のようであったという。源氏は船を持たぬため追撃はできない。もしそうなっていたら圧倒的な水軍を持つ平家が逆転勝利していたかもしれない。宗盛がまともな大将であったならという条件は付くが。

源氏圧勝の報を受けた法皇は、事実であることを第二報でやっと信じた。義経の奇襲が成功したためであることも確認した。

「あ奴は只者ではないな。義仲討伐もまぐれではなかったようだ」

義経贔屓となっていた側近の高階泰経が傍で頷いた。