【前回の記事を読む】「まあそこに座りたまえ」男子学生が指導教授に呼び出された理由は…
熱い石ころ
一
「まだハンドルさばきが本物じゃないな。一度にこうグッと回さにゃ」
教師はそう言いながら教習者手帳に日付の印を押した。
「どうもありがとうございました」常雄の背中は汗でぐっしょり濡れている。
「今日は、そんなら小林君の車に乗せてもらおうかな」
「オーケー。だけど君のほうがよっぽどうまいよ」
「あの先公、厳しいからな。前の日にコースを写して憶えておくんだ」
今までの素直な口調ががらりと変わった。明夫は帰りがけ、常雄に何で通っているのか訊ねた。
「軽自動車だ」
「なんだ、君は軽自動車の免許を持ってるのか。道理でうまいと思ったよ」
「いや、実は無免許さ。見つからないよう山の方の道を通ってくるんだ」
「じゃ、また明日」
明夫はそのまま帰ろうとして、いつも通学のため自転車代わりに国鉄の駅まで乗っている小さなバイクの方へ歩いていった。
「一緒にちょっと乗らないか。そこら辺を一回りドライブしよう。またここまで戻ってくるから」後ろから常雄が呼び掛けた。
「ようし」
明夫は「法令」と「構造」の教科書の入った紙袋をオートバイにくくりつけると、また常雄の方へ戻った。常雄が乗ってくるのは「雑貨商加納文男」と側面に書かれた荷物運搬用の軽自動車である。文男は父親の名前なのだろう。明夫は横の助手席に乗った。
「君は養成工になったんだったよなあ」
常雄も遠慮なく聞いてきたのだし、明夫も常雄のこれまでのことが知りたかった。「T機械工業」と、ぶっきらぼうに答えた。その頃、高校への進学率はまだ低く、かなりできる生徒でも家庭の事情で就職したものが多くいた。この地域の大企業の養成工に採用されるのは成績も良く、身体もしっかりした生徒でなくてはならない。明夫は進学することに決めていたから養成工は関係なかったが、養成工になるには体重が足りなかったような記憶がある。
「いつ辞めた?」
「一年もいなかったよ」
あまりにも短い。明夫はなぜ辞めたのか聞きたかったが、そこまで聞くのはちょっとぶしつけのようなので思いとどまった。常雄は独り言のように続けた。
「それから、Nゴムで一年くらい臨時工をしてまた辞めて、名古屋の喫茶店やバーにこの間まで勤めていた」明夫は黙って聞いていた。
「親父が病気になったので辞めて、今は家の手伝いをしているのさ。免許がないと仕入にも行けんからな。……といっても、もう毎日これで行っているんだがね」
「これで毎日習っているようなもんだから、一度でパスできるさ」
「何言っとる。おれなんか中学出でお前さんは大学じゃないか」
「そんなこと運転と関係ないよ。大学出と学校の先生が一番鈍いって自動車学校の先生が言ってたよ」
常雄はそれには応えず黙って前方を見ていた。道路の両側は、薄汚れたアパートと工場の長い塀が夏の午後のけだるさの中にあたかも幻想的な絵のように静まり返って延々と続いている。