【前回の記事を読む】趣向を凝らした新たな本丸…松永が四階櫓に込めた意味とは

永禄六年(西暦一五六三年)

「都の統治は、この頃、三人に依存していた。第一は公方様で、内裏に次ぐ日本全体の絶対君主である。ただし、内裏は国家を統治せず、その名称とほどほどの規模の宮廷を維持しているだけで、それ以外の領地を有しない。第二は三好殿で河内国の国主であり、公方様の家臣である。第三は松永霜台で、大和国の領主であるとともに三好殿の家臣にあたり、知識、賢明さ、統治能力において秀でた人物で、法華宗の宗徒である。彼は老人で、経験にも富んでいたので、天下即ち〈都の君主国〉においては、彼が絶対命令を下す以外、何事も行われぬ有り様であった」《『フロイス日本史』より》

天下は静謐を取り戻し、大和国も寧静な正月を迎えていた。多聞山城の北向きの六畳茶室で、儂が亭主となり、客をもてなした。招いた客は、興福寺塔頭の成福院、医者の曲直瀬道三、大和の商人松屋久政、堺の豪商若狭屋宗可、家臣の竹内秀勝の五名。

皆、茶入・茶碗・花入・掛軸などに名物を所有する一流の茶人たちである。

この日の趣向として儂は、村田珠光翁から三好宗三へと受け継がれた付藻茄子の茶入を浅黄の緒のついた金襴の袋に入れたものと、珠光翁の弟子の松本珠報から譲り受けた松本天目とを長盆に二つ置いて並べた。

松本天目を載せた天目台は、地付けの内に朱で梅の一文字をえたもので、天下の七つ台の内の極上の一品である。

屏風の内の台子四組には餌畚水指、柄杓と高麗箸を挿した足利義満の杓立、天下一の合子、そして奈良の四聖坊宗徐から受け継いだ平蜘蛛の釜を配した。床壁には、南宋の天台僧であった玉澗が描いたという〈瀟湘八景〉の内の〈晩鐘〉を掛けた。〈瀟湘八景〉とは、南宋にある洞庭湖に注ぎ込む二つの川の合流点辺りの風光明媚な地を山水画としたものである。

そして、もともと一巻の巻物であったものを八代将軍足利義政公が八枚に裁断し、掛物に仕立て直したもので、その一枚が〈晩鐘〉である。本座に皆が着き、それら茶道具を順に拝見し、床壁の絵を心静かに眺め、慎んで礼を申した。

「さすがは霜台様、どれ一つ取ってみても逸品ですなぁ」

まず曲直瀬道三が感嘆の声を上げた。

「まことに、目の保養になりますわ」

興福寺の成福院も同調した。

「道具だけではない。何より面白い」

松屋久政が儂にとっての最高の誉め言葉で讃した。その間に風炉の火を直し、この日の茶頭を務める若狭屋宗可が、宇治の茶師森氏の銘茶〈別儀〉を点て、成福院、道三、儂、久政、秀勝、最後に宗可の順に味わった。

ちなみに〈別儀〉とは、村田珠光の弟子が茶会の際に、銘茶〈無上〉の中から良質の茶葉だけを選りすぐり客に点てたところ、そのあまりにも旨い味わいに驚いた客が「別儀」すなわち「格別」と感嘆したことに名を由来する逸品であるという。

料理は本膳から三の膳を味わい、酒は摂津平野のウコギ造りのものを嗜んだ。そして高く広い縁高に七種の菓子を盛り合わせものを最後に供した。終始、給仕は喜多右衛門尉が一人にて行い、大いに儂を助けてくれた。あとでたんまりと褒美をやらねばなるまい。