天気雨
――今夜の天気は晴れ。ところにより一時雨が降るでしょう。
時刻は夜。庭に咲いた桜でも眺めて一献傾けようと縁側に座す。
普段であれば庭の隅に一本だけ寂しそうに佇む桜も、今日は「私の咲いている此処こそが世界の中心だ」と豪語しているかのようである。月の光を浴びた満開の桜はそれほどまでに綺麗に見えた。
幸運なことに今宵は風もなく、春の初めにしては気温もそこそこに高い。
(常温の酒をちびりと飲むにはちょうどいい気温ではないか)
にんまりと、己の顔がほころぶのを感じた。
一升瓶から小さなグラスに日本酒を注ぎ込む。トクトクと音を立てて注がれていく様子に嬉しさを抑えきれない。グラスの七分目まで注いでから、辛口の酒を啜る。
少し粘度のある液体が苦みを残しながら喉を通り抜けていくと、臓腑に火が灯ったかのような錯覚に陥る。それを外へ出すようにほぅと息を吐くと、まるで魂まで出て行ってしまうと錯覚するほどの安堵が身を包んだ。
癒される。日々の疲れが癒されていく。今宵はこのまま、どこまでも飲んでしまいそうだ。再び酒に口を付ける。月の光を浴びた桜が、小さな風にさらさらと踊った。
月、桜、酒。
これほどの贅沢は存在しないはずだが、はて何か物足りなさを感じる。そんなわけはない。己にそう言い聞かせれば聞かせるほどに、それが絶対的な質量となって心に圧し掛かる。孤独と郷愁が入り乱れたような感情が沸々と己の中に湧き上がっていく。暗鬱な気持ちになりそうだったので酒をぐいと呷ると、心を見透かしたかのようにぽつぽつと雨が降り始めた。
おや、と空を仰ぐが、そこには満天の星空とお月様が佇むばかり。であるならばすぐに止むであろうと思われた雨は、しかしながら一向に止む気配がない。それどころか徐々に激しくなっており、すでに桜の花が見えないほどになっている。
(これでは折角の桜も散ってしまう)
陰鬱な気持ちのまま宴を終えようと腰を上げようとしたところで、はたと思い当たる。見上げた空にはお月様が輝いていて、相変わらずに雲ひとつない。人はそれをこう呼んでいる。
――狐の嫁入り。
そうつぶやくのを待っていたかのように、一斉に雨が上がった。心配していた花弁は、ほとんど落ちなかったようで桜の木に変化はない。いや、ひとつだけ変化がある。それは些細だけれども致命的な変化でもあった。