「久しぶりだな」
桜の木の下に佇む女の声が響く。つい先ほどまで気配すらなかったのに、その光景はなぜだか心にしっくりと合致した。腰まで伸ばされた黒い髪、闇の中でもなお映える赤の着物。月明かりの下、ともすれば浮いてしまいそうな光景を、紫の帯が幻想的な雰囲気に仕上げている。黒髪はその光を受け艶やかに輝き……頭についた獣の耳を煌々と浮かび上がらせていた。
――あぁ、これは夢か。
それならばこの夢見心地にも納得がいく。
月と桜と酒と……愛した女。足りなかった欠片がかちりと組み合わさった。妙に浮ついた心をごまかすように、グラスからもう一口酒を啜る。
「夢か……、夢であればよかったのかもしれないな」
囁くような女の声。けれどもう此処には彼女の声以外の音は存在しないかのように、はっきりと耳に入ってくる。女は寂しそうに微笑むと、次の瞬間「いいわけがなかろう」とすぐに表情を厳しいものへと変えた。桜を眺めるためだろう、くるりと身体の向きを反転させると、女は泰然とした態度で佇む。さらさらと揺れる長い黒髪が、月の光を流すように照り輝いている。
この場における主役は、すでに桜ではない。女の艶やかな髪に見とれて、己が呼吸を忘れていたことに気づく。感情を抑え込むようにして再び酒を呷るが、辛口の刺激はむしろ感情の芽吹きを助長しているようで、胸の内に欲望と欲求が渦巻いた。
「どうした、私の髪がそんなに気に入ったか? 悪い気はせぬが……私のこともしかと見てくれんと困る」
――それならば近くに来ればいい。もっと顔をよく見せてくれ。そうでなければ、きっと己は再び間違いを犯す。……お前と歩むことを恐れてしまう。
「お前さんは人間だから……それは仕方のないことだ。だから、お前さんがどこへ行こうとも、構わぬ……」
寂しそうにつぶやく彼女の表情に、己の罪をまざまざと見せつけられる。数間ほどの距離が、遥かなものになってしまったようだ。けれどその間を彼女の方から詰め寄ってくる。ゆっくりと、儚げに。手を伸ばせば触れてしまえるほど近くまで。
「構わぬが……死ぬほど寂しいのだ。いや、死ぬよりも寂しいのだぞ」
己の甚兵衛の裾を軽く握って、涙声の囁きが漏れる。あぁ、そうだ。いつだって彼女はそうだった。こうやって不器用に愛してくれる。甘い香りのする女を抱き寄せて、可愛らしくぴんと伸びた耳元で彼女の名を呼ぼうと口を開くが、果たして彼女の名前が出てこない。
「ふたりで過ごす時間に名前で呼び合う必要もあるまい。お前さんの紡ぐ言葉の全てが、私のためのものだ」
然り。この世界に他の音などいらぬ。彼女がいれば、それだけで満たされる。
「言葉など、なんの意味も持たぬ」
彼女の手が己の頬にあてられる。長い間見つめあい、どちらからともなく唇を合わせる。
「……悪くない味だ」
ここにきてようやっと和らいできた女の表情。茶色い三角の耳が、悦びにひょこひょことしている。
「さぁ、再会を祝して乾杯だ。今宵はずっと傍にいよう」
女は酒瓶を持つと、グラスになみなみと注ぎ込んだ。夜桜を眺めながら、ひとつの杯からふたりで酒を飲み合う様子はどことなく……
「まるで神前の儀式のようだな」
そう言って、彼女が明るい笑みをこぼした。
ふたりを祝福するように、花弁を乗せて一陣の風が通り抜けていく。
――今夜の天気は晴れ。ところにより恋の花が降るでしょう。