当時、祖父は目が不自由(緑内障?)で仕事が出来ず隠居の身であった。それで、祖母が、献身的に身の回りの世話をしていた。それ以降、母のいない寂しい日々を送り続けた。
祖父母は「両親がいなくても人は育つ」を実践してくれて、私と妹を一生懸命に育ててくれた。私と7才年下の妹も祖父母や叔母になつき可愛がられた。私は、孫の立場でありながら、祖父母を自分の両親だと思い一緒に暮らしていこうと決意した。そして、何があっても終生同居して最後の最後まで面倒を見てあげようと強く誓いそれを実行した。
その後、成人し結婚して亡き妻の絶大な理解と協力のもと、二人して高齢になった祖父母が亡くなるまで、手厚く面倒を見させて貰った。
祖父は、京都の自宅で昭和44年(1969年)80才で、祖母は、枚方市の自宅で昭和56年(1981年)祖父が亡くなった時は、出張で仙台にいた。飛行機で飛んで帰宅したが死に目に会うことは出来なかった。とても残念だった。祖母の時は、自宅に医師を呼び寄せ息も絶え絶えの中、手を握って「おばあちゃん。しっかりして。元気出して」と大声で叫んだ。
「正夫。ありがとう」
とか細い声でニコッと笑って静かに息を引き取った。その場で、妻と二人で泣き伏した。一生忘れられない悲しい出来事だった。最後に言ってくれた「ありがとう」その一言で、育ててくれたことへの恩返しが少しでも出来たのではないかと思った。
妹は、その後、結婚して離婚し二人の子供を立派に育て、現在、施設の介護士として川崎で活躍している。全うした。