木々の葉が地を覆う頃、儂が施主となり、前関白近衛植家公と関白近衛前久公の親子を願主として奈良に下向していただき、春日社七ヶ夜陪従神楽を興行した。これは山林枯稿の際に行われ、大和国を支配する者が代々、摂関家を招いて催すもので、鎌倉に幕府が置かれていた頃から続く伝統行事である。

大和国の権威である興福寺の衆徒の中には、他国者の儂による執り仕切りに異を唱える者もあったが、儂自らが衆徒の棟梁の座に就くことで、その正当性を獲得した。

神楽執行の実務は、興福寺の中坊藤松の助言を得ながら、家臣の塩冶慶定と半竹軒に命じて調えさせた。儂が施主を務めることで、大和国の支配者が誰であるかを知らしめるのに、好都合の行事であった。

春日社七ヶ夜陪従神楽には保子も同席させた。多聞山城には保子と二人の娘を呼び寄せ、共に暮らしている。

「今宵は関白様もたいそうお喜びにあらしゃるご様子」

「そういうそなたも、たいそう嬉しそうな顔をしておる」

戦続きの日々で、宮廷育ちの保子にとってはさぞかし怖い思いをしたであろうに、久方ぶりの雅な宵に酔いしれている様子である。

「はい、宮中の暮らしを思い出しておりました。御上(おかみ)とともに能や神楽をよく観たものです」

「そなたを多聞山城に呼び寄せたからには、京の都に()った時よりも雅やかな暮らしをさせてやろうぞ」

このうら若い側室を儂はこよなく愛おしく想っている。

「わがきみ」

と、保子は艶っぽい目をしたので、儂の心の臓は年甲斐もなく波打った。