【前回の記事を読む】「天国に入りたる感あり」人が造ったと思えない美麗な建物とは

永禄五年(西暦一五六二年)

昨年、家臣の塩冶慶定に命じて、眉間山にあった眉間寺を別に移築させ、跡地を新たな城の本丸とし、名も眉間山から多聞山に改めた。棟上げ後、城の普請については、家臣の勝雲斎周椿に細かく指示し、作事にあたらせた。そしてこの城の目玉は何と言うても、二階建ての(やぐら)の上に斑鳩法隆寺の夢殿を模した八角堂を載せ、更に望楼を載せた都合四階の塔を建てることにある。

果たして、奈良中があっと驚くような高くて美しい塔を備えた多聞山城が完成した。

見た目には、お天道様の日を浴びると白亜に輝いて見えるように美しく、機能的には火責めにも耐えられるように、建物の外壁と礎石は漆喰で塗り堅めている。屋根は火矢で燃えぬように黒瓦で覆い、重厚感を表現した。

本丸曲輪の防備は、土塁や塀を廻らすのではなく、儂が考案した多聞櫓で囲った。多聞櫓とは、鉄砲や火矢による攻撃にも耐えられるよう、漆喰と黒瓦で防御した長屋(やぐら)のことで、これに数多くの鉄砲狭間を設けて、(やぐら)の内側から外の敵に向けて鉄砲を撃ちかけることのできるようにした。長屋櫓ならば雨でも鉄砲が使える。

建物の木材には杉をふんだんに使用し、杉の香りで部屋や廊下を満たす。壁や襖絵には狩野派に描かせた本朝や唐の歴史物語が彩り、絵の余白には金箔を施した。柱の上下には彫刻を(しつら)え、金に塗られた真鍮製の細工で飾った。中でも〈楊貴妃の間〉は床一面を畳敷きの座敷とし、贅を尽くした造りとなっている。

庭園の樹木には技巧を凝らし、北向きの六畳の茶室と四畳半の茶室を(しつら)えて、〈寂敷〉〈詫敷〉を(あらわ)してみた。そして八角堂と望楼を載せた四階(やぐら)が、多聞山山頂の更にその上に絢爛荘厳に(そび)え立っている(さま)は圧巻である。

この四階(やぐら)には、ある意味を含めている。

三年前の永禄二年に、初めて儂が大和国に陣を敷いたのが斑鳩の法隆寺であり、夢殿はまさに儂にとっての大和征服の象徴なのである。そして、奈良を象徴するその夢殿を模した八角堂の上に儂の描いた望楼を載せることにより、奈良を支配するのは誰有ろうこの儂であるぞ、という意気込みを具現化したものとなっている。

大和の者にしてみれば、これはあまりにも刺激的な景色に映り、大和人の心を逆撫でする(おそれ)があったが、あえて儂はそうした。

戦うための城としての機能を充分に備えたうえで、三好の天下を知らしめる〈魅せる城〉の要素もふんだんに取り入れた、今までに見たこともない画期的な城を造り上げたのである。

出来栄えに満足した儂は、落成式の日に奈良中の民草を招いて、城を披露した。

「およそ人の作りたるものに見えず」

「京の天子様か将軍様の御所を思わせる館よ」

などと、皆、口々にして見入っていた。