母親の実家のある河内と呼ばれる辺りは、河内音頭や、今東光原作の『悪名八尾の浅吉』の映画の舞台となった、ガラが悪いが人情味のある地域である。私はここで少年期から青春期を過ごすことになるが、ここは表社会も裏社会もごちゃごちゃの団子状態、勿論時代もそうであったのだが、今思えば悲喜こもごもの私にとって本当に人間関係の濃い時代を送った。

世話になった祖父の溝口駒吉は、先代が興した土木業の「溝口組」を実弟に譲り、農業と不動産業を兼業していた。母には双子の弟があり、その義和と勢次は溝口組の土方をしていた。高度成長期から列島改造に至る時代、昭和四十五年の大阪万博を契機にこの周辺も上下四車線の外環状線や近畿自動車道など交通網が整備され、国鉄と私鉄(近畿鉄道)の鉄道インフラも充実して大阪の中心街へのアクセスも半時間ほどと短縮されていった。

田畑は区画整備が進み住宅や工場が増え、長閑な田園風景が一転した。そして、私が通った私立大学の他にも大小の学舎が近隣にでき、沿線の駅周辺に若者の姿が増えた。祖父の所有する農地も減ったとはいえ、まだ五、六反の田んぼで稲作をしている。不動産は主として賃貸店舗とマンション併用の小さなビルや木造のアパート数棟と月極駐車場を所有。

いわゆる土地成金の類で地域のちょっとした資産家とも言えなくもない。双子の叔父たちは事業を発展拡大するという才どころかその意志、すなわち向上心の欠片すら持ち合わせていない。長女の母のような社会観は微塵もなく、学校の教科書を家で開いたこともない二人は、中学を出ても高校へ進学しなかった。

この時代、男女とも中学卒業後には半数以上が就職や家業を手伝い、高校へ進学しても大学に進学する者はほんの一握りであったため、彼らはそう特別でもなく、逆に母のほうが特別だった。二人とも近所で所帯を持っているが、揃って専横な性格は周知で、身内の私でさえ顔も合わせたくもない。

土方の仕事といってももともと技術を持っているわけでもなく、ニッカボッカに地下足袋と一丁前の格好をしているが、十年たっても玉掛けひとつろくにできないありさま。そのくせ社長の身内をひけらかし、叔父の社長のみならず実質経営を仕切っている従兄の専務も彼らに手を焼いていた。

毎晩大酒を飲み、癖悪く酒屋で喧嘩に明け暮れ、若いときから近所の鼻つまみ者で、互いに何かをやらかすと、そのたびに祖母が謝りまわる姿を見ていると嫌になる。それ以上にそれを知る同級生や知人に恥ずかしかった。そのために祖父は早くして彼らに嫁をとり、それぞれに新築の家を与えたが、その甲斐はなかったと思う。

村の外に出て他人に気を使いながら労働をせずとも、適当に身内の土木業の単純作業をこなしていれば十分生計が成り立つ。夫婦で親の財産に執着し依存する生活で、金に困れば親に無心する。自力で生きていく世間常識などは失せてしまっていると言うか、元々ないのだ。きっとこの叔父たちは一生この村から離れて生活することはないだろうし、できないだろう。それが許される環境であることが羨ましいが、逆に哀れにも思った。

しかし、家を飛び出し結婚しそして離婚、元夫の子を親に預けて再婚という母を、村の衆にナリが悪いと、自分たちのことを棚にあげ、私を苛める行為には憎悪を抱き、幼かった通学時代のことが今でも私のトラウマになっている。