畠山勢は凡そ四万の大軍をもって、孤立した飯盛城を囲んだが、鳥養の三好の陣にも池田長正、伊丹親興、有馬村秀、能勢頼道、塩川長満などの摂津の国衆が続々と参陣してきた。
「内藤蓬雲軒様、ご着陣」
鳥養に布陣してから一月後、蓬雲軒と号した甚介が丹波から参陣した。
「兄者、元気そうじゃのう。たいそう御出世されたそうで、鎧も太刀もかなり値の張りそうな物を着けておられる。御立派に見えますぞ」
「からかうな。甚介に言われると、何やらこそばゆいわ」
少々嫌みに聞こえるが、これが甚介流の祝意の表し方だと儂は承知している。
「よう来てくれた。丹波の仕置きはキツかろうに……」
「おうよ。小蝿どもがブンブンと煩そうて敵わぬ」
甚介は減らず口を叩いた。
甚介が参陣した二日後、凡そ四万の畠山勢は二度にわたり飯盛城に総攻撃を仕掛けたが、長慶様の守りは堅かった。
気掛かりだった大和国については、筒井、井戸、十市、箸尾などの国中衆に加え、沢、秋山、芳野の宇陀三人衆もこぞって河内に出張り、畠山勢に加わっているため、大和国内は平穏であると、松永派の柳生宗厳から知らせがあり、安堵した。
鳥養に布陣してから二月も経つと、四国勢が遠来し、儂ら三好勢は五万の大軍に膨れ上がった。四国勢の諸将は皆、頭を丸め、安宅冬康は宗繋と号し、篠原長房は岫雲斎怒朴と号し、淡路衆・阿波衆を率いて三好実休の弔い合戦に臨んだ。
畠山勢は四万の大軍であったが、鳥養の三好勢がそれを上回る勢いを見せると、飯盛城包囲の後巻きにされるのを嫌って動き始めた。
「申し上げます。畠山勢が城の包囲を解き、南下を始めた模様」
物見が伝えて来た。
「若殿、いかがいたしましょうや」
「霜台は如何にみる」
そう問う義長様の御姿は、もはや若かりし頃の長慶様に生き写しで、その眩さに目を細めながら儂は応じた。
「退くと見せかけて、我らが淀川を渡河するのを見図って反転し、寄せ返して来るやも知れませぬ」
なぜならば、渡河する軍勢はその無防備な状態を敵に晒すことになるからである。
「私もそう思う。ただし、渡河の準備だけはしておこう。全軍に渡河の支度をいたすよう申し伝えよ」
伝令が散っていった。
だが儂らの心配を他所に畠山勢が反転攻撃することなく、大軍は静かに南の高屋城方面へと退いていった。それを見極めた儂ら三好勢は全軍で淀川を渡河し、飯盛城に向かった。
「伝令っ伝令っ。御屋形様の御指図でござる」
飯盛城からの早馬が言うには、
「私への挨拶など要らぬ。早う畠山勢を追え」
とのことであった。